* * *
僕は今眠っているのだろうか。目の前の景色がなんだかぼやけて見える。
目の前に現れたのは野生のゴリラ。辺り一面ひまわりが咲き誇っている。ゴリラってひまわり食べるんだっけ? あれ? 違う。ゴリラじゃなくて諒太だ。
「お前、こんな所で何やってんだ?」
僕が何度諒太に話しかけても返事もしなければこちらを見る事もしない。
「おーい! 諒太ー!」
諒太からの返事がないのでしょうがなく僕の方から近づいてみる。
「おい、諒太」
ぼくはそう言いながら諒太の前に立ち顔の前で手のひらを振る。けれど諒太には僕の姿が見えていないようだ。
ふと諒太の視線の先に目をやると、背の高い女性が七色のオーラを身に纏い輝いていた。
「おい、京香! お前もこんな所で何やってんだ?」
どうやら京香にも僕の声は届いていないようだ。
諒太は僕の体をすり抜け京香の方へとゆっくりとした足どりで歩を進めた。京香の前まで行くと諒太はプロポーズでもするかのように跪《ひざまづ》いた。
――え? うそ。
そして諒太はズボンのポケットから四角い小さな箱を取り出した。
――まじか。
諒太は箱の蓋を開け、そして……。
「Will you marry me?」
――なんで英語なんだよ。まあここまできたら頑張れ、諒太。
「Why not?」《もちろんよ》
――おー! 諒太おめでとう! つか、なんで京香まで英語なんだよ。
京香はきらきらと瞳を輝かせ諒太へ抱きついた。
諒太は京香を軽々と抱え上げる。お姫様抱っこをしたまま二人はひまわりの中へと消えていった。
* * *
僕は目を開けた。足がピクンと動き、壁を蹴ってしまったらしい。
「いってえ」
枕元の灯りをつけスマホに手を伸ばす。
『2:53』
「まだこんな時間か」
僕はベッドから降りふらふらしながら冷蔵庫まで歩いた。牛乳をグラスに注ぎ、乾いた喉へ一気に流し込む。
「ふう、うめっ」
駅のホームでよく見かけるサラリーマンのように腰に手を添えていた事に気づきなんだか少し可笑しくなった。
そういえば夢を見ていた気がする。少女に逢えたのか。いや違う。諒太と京香の夢だ。思い出したとたん、夢の詳細が走馬灯のように蘇ってきた。なんだかほっこりした気分になり、思わず口角を上げた。
僕は再びベッドに寝転んだ。枕元の淡い光に照らされた2Bの鉛筆がルーズリーフの上に影を落としている。
音符を書いたり消したりするのに適した芯の柔らかさを持つ2Bの鉛筆。芯の硬い鉛筆では紙が凸凹になったり消しづらかったりする。逆に4Bなどの柔らかすぎる鉛筆は消しているうちに紙が黒ずんでしまう。
2B――正に音楽家の為に作られた鉛筆――なんだとつくづく思う。
僕は目を閉じ再び眠りに就いた。
* * *
「こんにちは。今日も来てくれたんだね」
見た事のある少女が目の前にいる。あっ、夢の中のいつもの少女だ。今日もまた逢うことができたんだ。
「こ、こんにちは。よく会うね。君、この辺に住んでるの?」
「うん。そうだよ。君も?」
「うん。僕は空音荘っていう学生寮に住んでるんだ」
「ふふっ。本当は知ってた」
「知ってたって、何を?」
少女は僕の質問に答える事なく走り出した。そして僕は追いかける。気づくとそこは、あちこちで反射光がプラチナ色に輝くオフィス街だった。
なんだここ? サラリーマンばっかじゃねえか。
「ねえ、どこ行くの?」
「こっち、こっち」
少女は満面の笑顔を作り僕に向かって手招きをする。
「ねえ、君。早くー」
僕は必死に少女を追いかける。けれどなかなか足が上手く前に進まない。
僕は必死に追いかけた。すると今度は夕陽の射す浜辺に着いた。沈み行く柚子色の太陽が水面と戯《たわむ》れゆらゆら揺れている。
「ねえ! 待ってってば」
「ふふっ。こっち、こっち」
少女は砂浜で波と戯れていた。
「ねえ、君、名前はなんていうの?」
ようやく少女に追い付く。僕は息を切らしながらそう訊ねた。
「私、紗綾《さや》。糸へんに少ないで紗。『や』も糸へんの『あや』って漢字。わかる? 君の名前は?」
「わかるよ。紗綾ちゃんが。可愛い名前だね。僕はヒロ」
「へー、ヒロ君ね。ヒロって沢山漢字があるよね。フルネームは? どんな漢字を使うの?」
フルネームはあまり言いたくない。僕の名前を聞くとみんな笑うのだ。
「ヒロでいいよ」
「えー! 教えてよ。ヒロ君の名前。気になるー」
「いいけど……笑わない?」
「もちろん。笑ったりする訳ないじゃん」
「なら、いいけど……」
少女は興味津々な様子で僕の顔を覗き込む。
「苗字は岡。丘の上のお城の『丘』じゃなくて岡山県の『岡』のほう」
「全然普通じゃん。笑えない」
「なんでがっかりしてんだよ。笑う気満々だったみたいじゃん」
「そ、そんな事ないよ」
彼女は慌てて否定した。
「名前はヒロミ。広い海って書いて広海」
「えー? 岡ひろみなの? 『エースを狙え』じゃん! キャハハハ!」
「ほら、やっぱり笑った。だから名前言うの嫌なんだよ」
「あ、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだよ。ふふっ」
「あ、また笑った」
「ごめん、ごめん。でも面白いんだもん。ふふっ。そういえばさあ、エースを狙えの岡ヒロミってどんな漢字だっけ?」
「岡は僕と同じ。ひろみはひらがなで『ひろみ』だよ」
「へー、そうなんだ。宜しくね、岡広海さん」
「フルネームで呼ぶな」
* * *
――ピピピピ、ピピピピ。
僕は目覚まし時計を叩いた。
「もう朝かよ。ねむっ」
そう呟いた瞬間、夢を見ていた事に気づいた。はっとして枕元の鉛筆に手を伸ばす。
僕の名前を教えた気がする。そして少女の名前も……。なんだっけ? 紗希? なんだか違う。そうだ! 糸へんだ。てことは……。紗綾だ。そうだ。紗綾ちゃんだ。
僕は五線譜にそって――紗綾――と書き留めた。