――九年前――二〇一九年。秋。

 大学三年生の僕は教育実習を終え、石巻の寮へと帰ってきた。

 京香に連絡が取れず、僕はあれこれと調べだした。すると武藤京香――僕たちと同じ音大に入学したはずの彼女――は、大学に在籍さえしていない事が判明した。

 過去に変化が起きた為、未來までも変わってしまったのだ。そう、大学の同級生だったはずの京香は十八歳で天国へと旅立っていたのだ。

 生前の京香から渡された手紙を読み、失意のまま僕の寮から諒太が帰ろうとした時、寮母さんに呼び止められた。

 そして諒太に対してこう言った。

「諒太さん、あなた本当に京香さんの事がお好きなのよね? 京香さんがこの手紙でおっしゃってるように、もしも生まれ変われたなら彼女をお嫁さんになさるおつもりはございますか? 京香さんは私の孫も同然の方です。幸せにしてさしあげる自信はおありになる?」

 すると諒太は背筋をぴんと張り答えた。

「もちろんです」

 そして寮母さんは僕に「日記を部屋から持ってくるように」と伝えた。あの時の寮母さんの目から発せられた力、僕は今でも昨日の事のように覚えている。

 僕が日記を持ってくると寮母さんは話を始めた。




「お二人ともよく聞いて下さいね。ご存知の通り、この日記が置いてある部屋で眠れば三年前の今日にゆく事ができます。この日記をあなた、諒太さんにお預けします。過去に行って彼女を助けるのです」

 僕は寮母さんの言っている事が理解できなかった。もちろん諒太も理解できていなかっただろう。

 諒太は首を傾げながら寮母さんに言った。

「寮母さん、でも三年前の今日へ行く事ができたにしても京香は既に亡くなってます。お気持ちはありがたいですが、京香を生き返らせる事などできないです」

 すると寮母さんは日記の裏表紙を僕たちに見せた。

「あっ、『三』だ」

 僕は思わず呟いた。

 以前僕も日記の裏表紙に漢数字の「三」という文字が鉛筆で書かれてある事には気づいていた。この文字は何だろうと少し不思議に思ったけれど、さして気に留める事もしなかった。

「京香さんが入院し始めたのはいつ頃からなのか、覚えていらっしゃる?」

「確か、高校一年生の頃には入退院を繰り返してました。京香とは高校からの付き合いなので中学時代の事はよくわかりませんが……」

「じゃあ、中学一年生の頃に戻りましょうか。あなた方が中学一年生だったのは何年前なの?」

 中学一年生の頃に戻る? 一体どういう事なのだろう。僕は諒太と目を合わせた。

「ほら、何ぼやっとなさっているの? 早く計算なさい。中学一年生は何年前なの?」

 諒太は指を折りながら計算を始めた。

「今が二十一歳で、中一の時は十三歳なので八年前です」

 僕がそう答えた時、諒太はまだ指を折っていた。

 寮母さんは消しゴムを取り出し裏表紙に擦りつけた。「三」と書かれた場所を何度も往復させると文字は消えてなくなってしまった。

 そして日記の裏表紙に溜まった消しゴムのカスを「ふー!」と吹き飛ばした後、「八」と書き込んだ。

「はい。これでよしっと」

「寮母さん、どういう事ですか?」

「岡君ほど賢い方が察しが悪いわね。これでこの日記のある部屋で眠れば八年前の今日にゆく事ができるのよ。諒太さん、京香さんを助けたいならあなたが頑張るしかないの。私たち血縁者はこの日記と一緒に眠っても過去にゆく事はできないの。癌の一番の特効薬って何だかご存知?」

 諒太はぽかんと口を開け寮母さんの方を見ていた。そして慌てたように答えを探そうとしたけれど答えなど見つからなかったようだ。

「特効薬……そんなのがあるんですか?」

「あるわよ。『早期発見』よ。諒太さん、あなたが八年前へゆくの。そして京香さんの親御さんに訴えるのよ。白血病が発症してしまう前から何度も何度も検査を受けさせるように仕向けるの。そうすればドナーを待つほど末期にならずに京香さんは助かる。あなたが京香さんを助けるの。もうその方法しかないのよ」

 そうか。そんな方法があったのか。僕は……僕たちは再び京香に会えるかもしれない。うまくいくかどうかはわからなかった。けれどもうそれに掛けるしかない。

 さっきまで泣きじゃくっていた僕たちに一筋の光が差し込んできた。

「やります! 俺、京香を助けます!」

 諒太の頼もしい返事を聞いた寮母さんはにこりと微笑んだ。

「頑張って下さいね。でも未來から来た事を親御さんに信じてもらう所から始まるのよ。変な人だと思われてしまうでしょうね。他にも障害は沢山あるわよ。大丈夫?」

「はい! なんとかします。京香を助ける為なら何だってやります! 寮母さん、ありがとうございます。よーし! 早く寝るぞー!」

 諒太は日記を抱え寮を飛び出した。

「ふふふっ、彼ならできるわね。岡君、期待して待つ事にしましょう」

 僕は寮母さんに深々と頭を下げ部屋へ戻っていった。




 それから数日後、なかなかうまくいかない事を諒太は僕に打ち明けた。

 八年前の京香の両親に会う為にはブラックホールを抜けてから石巻を出発し東京まで行かなければならないのだ。途中で目が覚めてしまう事が多く、なかなか会いに行けないらしい。

 そこで冬休みまで待つ事にした。実家に帰れば京香の家までは近い。

 二〇一九年のクリスマス直前、ようやく二〇一一年の京香の両親に会う事ができたようだ。

 けれど案の定、「八年後の未來からきました」と告げた諒太は玄関で不審者として扱われ警察につき出されそうになったらしい。

 そこで諒太は考えた。大晦日に行われた紅白歌合戦の結果、年明けのお正月番組で芸人が披露するネタの種類、年明け一番最初に開催される競馬のG1レース「金杯」の一位からビリまでの馬の名前などをググり、未來から来た人間にしか知り得ない情報を京香の両親に伝えたのだ。

 最初は「偶然だ」「テレビ局に知り合いでもいるんだろ」「何か裏があるんだろ」などと言われ、信じてもらう事ができなかったようだ。未來から来たなどと言われても信じられる訳がない。京香の両親が疑うのも無理はないのだ。

 ぐずぐずしていると発症してしまう。僕なら焦ってしまいどうする事もできなくなっていただろう。けれど諒太は諦めなかった。

 京香の両親は世界的に有名なオーケストラの一員である。諒太はそこに目をつけネットで二〇一一年の事を調べだした。そして大きな記事を見つける事に成功した。

 それは、ウィーンでの公演中、パーカッションの男性がステージの上で倒れてしまうというものであった。記事によるとその男性はくも膜下出血で倒れ病院に運ばれた直後なくなった。もちろんその公演で京香の両親も演奏していた。

 諒太はその事を伝えたけれど「そんな馬鹿な」とあしらわれてしまったらしい。そして公演中にその男性は運命通り人生に終止符をうった。

 その結果を受け、ようやく信じてもらう事に成功し諒太は京香の命を救う事に成功したのだ。もちろん大学三年生の時に発症する癌もしつこいくらいに何度も検査を受けさせ早期発見に繋げたのだ。

「もっと早く君の事を信じていれば我々は仲間を失わずに済んだかもしれない」

 京香のお父さんはそう言って諒太に頭を下げたという。

 諒太は大学卒業後、中学の教師を一年間勤めた。けれど、赴任した中学校は東京都内であるにも関わらず、夢の中で京香の実家へ向かうには何度も電車を乗り継ぐ必要があった。

 大切な時に途中で目覚めてしまい京香のもとにたどり着けない事がよくあったらしい。京香を助ける為には京香の近くで暮らす必要があったのだ。

 更に一番問題だったのは夢を見る時間帯である。夜中や早朝に夢を見てしまっても、京香の両親は眠っている。諒太は自身の体を夜型にし昼過ぎまで眠っている必要があったのだ。

 もちろん教師をしていれば昼まで眠る事など到底不可能である。

 教師や音楽家になる夢よりも、諒太にとっては大切な夢がある。その大切な夢を叶える為、教師をやめる決断をしたのだ。

 そのお陰で京香の体にはメスを入れた傷さえ残っていないという。

 そんな諒太の献身的な行動、優しさ、男らしさを目の当たりにした京香は次第に諒太に惹かれていった。

 過去は何度も変えてしまったけれど、京香が諒太に惹かれていくという「人の心」は変わる事などなかったのだ。




 ――二〇三〇年。ゴールデンウィーク。

 僕たちは富士山の麓でキャンプをしている。僕たち夫婦、僕の両親、妹の家族、そして昨年結婚した諒太と京香。大人数で新緑のもとバーベキューを楽しんでいる。

 父と母は僕の影響でハマった赤ワインのグラスを揺らしている。

 妹の娘は夏を待ちきれないかのように小川に小さな足を入れ、バシャバシャと水面を蹴っている。

 諒太と僕は炭火が消えないよう、額に汗をかきながら、うちわで炭に空気を送っている。

「おーい、紗綾! 京香! お肉焼けたよ」

「はーい」「はーい」

 紗綾と京香は僕の声に振り返る。そして二人は大きなお腹を両手で支えながらゆっくりと歩き出した。

 今あの日記は、ばーばの部屋の仏壇に大切にしまわれているらしい。

               ――了――