手紙を読み終えた僕たちは泣き崩れていた。

 京香はもういない。その事実がまだ信じられず、これも何かの夢ではないかと馬鹿な期待をしている。けれど、夢ではない。

 本当に京香は十八年間の人生に幕を下ろしたのだ。

 ――自らの手によって。
 ――自らの意志によって。

 二十一歳の彼女は担当医師から余命宣告を受けている。その為、死の覚悟はできたのだろう。

 けれど、十八歳の彼女は「生きる期待」を持ちながら、「生きる希望」を持ちながら、現れる事のないドナーを待っているのだ。そしてドナーを待ちながら死んでしまうのだ。

 どんなに不安だっただろう。どんなに辛かっただろう。

 彼女の事を思えば思うほど、涙の止め方を忘れた瞼から、次から次へと熱い物が溢れてくる。

 マーチングバンドの先頭でメジャーバトンを振る彼女、ユーフォニアムを優しく奏でる彼女、学食のテーブルにドンと両手をつき胸元を大きく開けて僕たちに怒る彼女、酔っ払ってふらふら歩く彼女、僕を引き寄せ唇を重ねた彼女。ありとあらゆる彼女が僕の脳裏を駆け抜けていく。

 どんなに泣いても、どんなに叫んでも、彼女は帰ってこない。



 どれくらいの間、僕たちは泣き続けただろう。

 ふと窓の外に目をやると、見える物の全てが朱に染められていた。

 京香からの手紙は諒太に預かってもらう事になり、諒太は「じゃあ俺、帰る」と力なく呟いた。僕は諒太を寮の門まで送る為、一緒に部屋をでた。諒太を一人にするのが心配な訳ではない。僕が一人になるのが辛かったのだ。ほんの僅かな時間かもしれないけれど一人になってしまう時間を遅らせたかった。

 一階へ降り食堂へと向かう廊下ではお互い一言もしゃべる事はなく、ほんの数メートルがとてつもなく長い廊下に感じた。

 目を腫らした僕たちは人に見られないように俯きながら食堂を通り過ぎようとした。けれど……。

「岡君、ちょっといいかしら。お友達も一緒に私の部屋へ来て下さる?」

 寮母さんに呼び止められてしまった。

「あ、はい」

 僕は諒太と視線を合わせた。なんだろう。何か規則違反でもしてしまったのだろうか。僕たちは恐る恐る寮母さんの部屋へと入っていった。

 部屋の奥の仏壇に少し不自然さを感じる。けれど、僕はすぐにその不自然さの答えである二つ事に気がついた。

 遺影が……故人の写真を入れた遺影が……一つしかない。寮母さんの亡きご主人の遺影だけが仏壇に飾られている。

 そしてもう一つ。京香がドナーである紗綾へ宛てた手紙――大切に額に飾ってあったあの手紙がない。

 そう、紗綾は生きているのだ。

 過去が変わってしまった為、現在も変わってしまっているのだ。

 跳び跳ねて喜ぶべき事ではあるけれど、その代償の大きさに今の僕は喜ぶ事などできなかった。

 寮母さんは僕たちの為に、二つの座布団をテーブルの前に置いてくれた。

「どうぞ。お座りになって下さいな」

「ありがとうございます」

 僕がそう言って座布団に座ると、諒太は僕の隣でぺこりと頭を下げ座布団の上に正座した。

「あ、足を崩して下さいな。緑茶でいいかしら? 珈琲とか紅茶とか洒落た物は私の部屋には置いてなくてね。あっ、朝食用の珈琲が食堂にあるわね。淹れてきますね」

「寮母さん、お構い無く」

 僕の声が聞こえたのかどうかはわからない。寮母さんは食堂へ行き、数分でお盆に乗せた珈琲カップを持ってきた。

「ありがとうございます。いただきます」

 寮母さんはテーブルにお茶を置いた後、後退りし座っていた座布団からおりた。そして両手を畳につけると深々と頭を下げた。

「ごめんなさい。紗綾から聞きました。三年前、京香さんが紗綾の所を訪れてドナーを断るように言ったそうなの。だから京香さんは……」

 寮母さんはそこまで言うと言葉を詰まらせた。

「寮母さん、その事は僕たちも知っています。京香から手紙をもらってたんです。諒太、手紙……寮母さんにも見せてあげていいかな」

 諒太は「うん」と頷きジャケットの内ポケットから手紙を取り出した。そしてその手紙をテーブルに置くと寮母さんの方へすっと滑らせた。

「寮母さん、読んでやって下さい」

 諒太は柔らかな声音でそう言った。

 寮母さんはエプロンのポケットから取り出した老眼鏡を掛け手紙を読み始める。しばらくすると寮母さんの目から涙が溢れだしてきた。エプロンの端をつまみ、何度も老眼鏡の下へ(くぐ)らせている。

 手紙を読み終えると老眼鏡を外しエプロンのポケットへそっと戻した。

「素敵なお嬢さんね。諒太さん、あなた本当に京香さんの事がお好きなのね? 京香さんがこの手紙でおっしゃってるように、もしも生まれ変われたなら彼女をお嫁さんになさるおつもりはございますか? 京香さんは私の孫も同然の方です。幸せにしてさしあげる自信はおありになる?」

 寮母さんの言葉。それは京香が奏でるユーフォニアムのように穏やかで優しい調べを想像させてくれる物だった。

 諒太は背筋をしっかと伸ばし「もちろんです」と、はっきりと答えた。

「岡君、あの日記をここへ持ってきてもらえますか?」

 そう言った寮母さんの目力に僕は圧倒されてしまった。その目には「オーラ」等という安っぽい言葉では到底言い表せない程の不思議な物があるように感じた。

「はい」

 僕はそう言って立ち上がる。けれど立ち上がる間、僕の視線は何かの力により寮母さんの目に引き込まれている。目をそらそうとしても自由がきかない程の何かがあったのだ。

 僕は部屋へ戻り日記を手に取った。寮母さんのあの目は一体何だったのだろう。

 再び寮母さんの部屋へ戻り、僕は日記をテーブルに置いた。

「お二人とも、いいですか? よく聞いて下さいね」


 寮母さんの話を聞き終えた頃、窓の外は僅かな街灯が街路樹を優しく照らしていた