教育実習が始まり二週間の時が過ぎた。授業も部活動も少しずつではあるけれど要領を得てきた。
高校生とはいえ、三年生の生徒達と僕の歳は三つしか違わないのだ。吹奏楽部とコーラス部の有志が集まり僕のファンクラブなるものが結成されているようだ。
一人の男性としてはありがたい話であるけれど、教頭先生からは目を付けられるハメになってしまった。
「岡先生、こういうのは困りますね。即刻ファンクラブは解散するよう生徒達に伝えてもらえませんか?」
「申し訳ありません。彼女達にはそのように伝えます」
ファンクラブのメンバーに事情を伝え解散してもらう事にした。
そして部活動での指導を終えた僕は心も体も疲れ果て、暗くなった坂道を下っていく。
京香はブラックホールを見つけ、紗綾に会えたのだろうか? 僕はコンビニで自転車を止め京香にラインを送る。
――最近連絡ないけど具合はどう? ブラックホール見つけて紗綾に会えたかな?
ラインを送り僕はまた自転車にまたがった。
「ただいまー。お腹減った。母さん夕飯何?」
「おかえりなさい。和風カツよ」
「えっ?」
「えって何よ。今日はパパの誕生日でしょ?」
忘れていた。そう言えば今日は父の誕生日である。教育実習の忙しさで誕生日プレゼントを買うのも忘れていた。毎年妹とお金を出し合いプレゼントを買っていたのに。妹も父の誕生日を忘れていたのだろうか。いつもなら「今年はパパのプレゼント何にする?」と、訊いてくるのだ。けれど今年は何も言ってこなかった。
「あ、お兄ちゃん、おかえり」
あれだけ注意したにも関わらず、妹はバスタオルも巻かずにお風呂から出てきた。
※また読者様自身でモザイクをかけてお読み下さい。
年頃の女の子がおっぱいのみならず下の毛までも丸出しで髪の毛を拭いている。
「あのなー! この前も言ったけど、恥じらいというものをだな……」
「はーい」
全く聞く耳を持っていない。僕は諦めた。
「二人共ご飯できたわよ。パパ書斎にいるから、結菜、呼んできてくれる? 広海は料理をテーブルに運んでちょうだい」
テーブルに四人揃い、僕は自分で飲む為に買ってきた赤ワインを四つのグラスに注いだ。
「広海、お前ワインなんて飲むようになったんか?」
父は少し驚いたように僕を見ている。
「ワインなんて飲んだ事ない。美味しいの?」
妹はそう言ってグラスを持ち上げ匂いを嗅いでいる。
「甘口のワインだからお前も飲めると思うよ」
「じゃあ、挑戦してみるか。パパ、お誕生日おめでとう!」
妹の音頭で父の誕生会が始まったのだ。
「かんはーい!」
「みんな、おおきに」
テーブルには父の大好きな豚カツが並んでいる。関西出身の父はカレーにも天ぷらにもソースをかける。けれど、母と付き合うようになり、母の作った和風豚カツにハマってしまったらしい。それ以降、豚カツには醤油をかけるようになったようだ。
母の作った豚カツの上には大根おろし、シソ、きざみ海苔、生姜、そしてかいわれ大根が乗っている。その上から醤油をたらりとかける。
子供の頃から我が家の豚カツは醤油だった為、友達が豚カツ定食にソースを掛けて食べているのを見た時は衝撃的だった。
母の作ったそんな和風豚カツが大好物である父の誕生日には毎年この料理がテーブルを彩るのだ。
「はい、パパ。私とお兄ちゃんからのプレゼント」
妹が椅子の後ろから取り出したのは縦長の紙袋である。明らかにネクタイだと分かるその紙袋を父は嬉しそうに受け取った。
「おー! ありがとう。この形からしてネクタイなんかな?」
「ピンポーン」
父は口に運びかけた豚カツをお皿に戻し紙袋を開けはじめる。
「おっ! 随分可愛いネクタイやな。ママ、似合うかな」
父は首にネクタイをあてがい母の方を向いた。パッチワークで作ったような可愛いらしい柄のネクタイである。僕は教育実習の忙しさで父の誕生日の事を忘れていたけれど、妹はちゃんと覚えていたようだ。
その夜、眠りにつきかけた僕は妹に起こされ、ネクタイ代の半分を妹から奪われた事は言うまでもない。
「結菜、父さんの誕生日プレゼントありがとな。教育実習に必死で完全に忘れてたよ」
「お兄ちゃん、なんだか忙しそうだったからさ」
「悪いな。ありがとう」
三週間の教育実習が終わり、僕は家に帰ってきた。
「お兄ちゃん、教育実習お疲れ。あ、京香さんから小包が届いてたよ。私も体育教師になろうかなあ。でもなあ、今の彼と結婚して永久就職ってのも捨てがたいしなあ」
「小包? どこ?」
「リビングのテーブルに置いておいたよ」
「あ、そ」
小包を開けると日記が入っていた。「日記ありがとう」と付箋に書かれたメモだけが貼り付けられてある。そう言えば京香から返信か返ってきていない。僕は京香に送ったラインを開く。
既読にすらなっていない。
――おい。元気か?
と、再度ラインを送ってみる。
夜中の二時、スマホを確認したけれど既読マークは付いていたかった。いくらスマホに依存しない性格の京香とはいえ、こんなに連絡が取れなかったことはない。
少し時間を作りお見舞いに行っておけばよかった。後悔の念にさいなまれながら僕は瞼を閉じた。
いつものように夢を見た。ブラックホールには入らずぼやけた世界で僕と紗綾は愛をはぐくんだ。けれど夢の中でも京香の事が気になってしまい、気が気ではなかった。
朝目覚めると慌てて枕元のスマホを探る。そしてラインを開いたけれど、いまだ既読になっていない。
今日は朝早い新幹線に乗らなければならない為、京香の病院へ行く事などできない。
僕は家族に別れを告げ石巻へと向かっていった。寮へ着き寮母さんへ挨拶を済ませるとすぐに部屋へと向かった。
「教育実習はどう……」
寮母さんは何かを僕に話しかけようとしていたようだ。けれど、僕の耳には届かなかった。
僕はポケットからスマホを取り出し、一足先に石巻へ帰ってきている諒太へ電話を掛けた。
『おう、ヒロ。帰ってきたのか?』
「うん。今帰ってきたばかりなんだけどさ、諒太お前、京香と最近連絡取ったか?」
『あ、俺もその事でヒロに電話しようと思ってたんだけどさあ、京香に電話しても、現在使われておりませんってアナウンスが流れるんだよ。京香のやつ、携帯変えちゃったのかなあ』
「は? 京香は入院してんだぞ! 携帯の機種変更になんか行ける訳ねえだろうが!」
僕は珍しく大きな声で怒鳴っていた。
『あ、それもそうだよな。そんなに怒んなくてもいいだろ』
「諒太、いつからだ? いつから『現在使われておりません』ってメッセージが流れてた?」
『おととい……だったかな』
「なんでそれを早く連絡してくれねえんだよ!」
僕は嫌な予感がした。そして大学の学事課へ電話を掛けた。
「もしもし、三年生の岡広海と申します」
『あ、岡君か。浪岡です。どうしました?』
一年生の時に入ったサークルに所属していた四年生の浪岡先輩は、卒業と同時に大学の職員として就職した。優しい先輩である。学年も違うので連絡先を交換する程の仲ではなかったけれどサークルのイベント等ではいろいろと教えてくれたのだ。
「浪岡先輩、うちの大学に僕と同級生で武藤京香さんという人がいるんですが、彼女の実家の電話番号を教えてほしいんです」
『いやー、いくら岡君の頼みでもなあ。そういう個人情報は教えちゃいけない事になってるんだよ』
社会人として二年目を迎えた先輩は、社会人としてふさわしい対応をしている。けれど、今はそんな事を言っている場合ではない。
「先輩、お願いします。京香の命が関わってるんです!」
『ゴホン、岡君、決まりは決まりです。そのような事を本人の了承もなくお伝えする事はできません。それでは失礼いたします』
――ガチャ。プープープープー。
無情にも電話は切られてしまった。僕は成す術もなくベッドへ倒れ込んだ。
「なんだよ先輩。いきなり大人ぶっちゃって」
独り言を言いながら愚痴ったっていると僕のスマホが音を立て始めた。
――090-5535-……。
僕のスマホには登録されていない番号である。誰だろう。僕は恐る恐る画面に指を滑らせた。
「はい。岡です」
『あ、岡君。俺だよ、浪岡』
「先輩!」
『さっきはごめんよ。大学に掛かってくる電話は全て録音されてるんだよ。今、喫煙室に来たんだけど、さっきの話……どういう事?』
「先輩、ありがとうございます。急ぐんです。事情は後日、必ず説明します。京香の実家の電話番号、教えて下さい」
『わかった。信用しよう。調べてくるからちょっと待ってて。またこの携帯から電話するから』
僕はそわそわしながら浪岡先輩からの電話を待っていた。トイレに行く時さえも肌身離さずスマホを待っていたのだ。
三十分ほど経過しただろうか。ようやく僕のスマホが音を立てた。
『岡君、武藤京香さんだよね?』
「はい」
『そういう名前の学生はこの大学に在籍していないんだ』
僕は耳を疑った。これは一体、どういう事なのだろう。