「はーい、みんな静かにして下さーい。今日から三週間、我が校の卒業生である岡先生が教育実習生として音楽の授業を担当します。岡先生、自己紹介お願いします」

 この高校の音楽教師である秋山先生が僕を紹介してくれた。昔の人気漫画の主人公と同姓同名である為、フルネームを黒板に書くのは少し抵抗があった。けれど名前を公表せずにはいられない。

 どうせ生徒達に笑われるのだ。僕は白いチョークを持つと大きな文字で「岡広海」と黒板に書いた。

「始めまして。オカヒロミです」

 けれどクスクスと笑ったのは後ろの席に座っている眼鏡を掛けた女の子一人であった。

 ちょっと拍子抜けしてしまったけれど、「エースを狙え」自体がかなり古い漫画である。最近の高校生は知っている子が少ないのだろう。

 一通りの自己紹介を終えると秋山先生が僕にリクエストをした。

「岡先生、挨拶代わりに一曲吹いてもらえませんか」

 生徒達からも笑顔と拍手をもらい、僕は「名探偵コナン」のテーマ曲をアルトサックスで吹いたのだ。

 再び生徒達と秋山先生から大きな拍手をもらい、初の授業を行った。緊張こそしなかったけれど、人に教える難しさを痛感し職員室へと向かっていった。

 バッグからスマホを取り出し画面をチェックするとラインのマークが付いていた。誰だろう。開いてみるとそれは京香からのものであった。

 ――あの日記、一日貸してもらえないかな。

 と、いう事は紗綾に何か用事でもあるのだろうか。僕は早速京香へ返事を送る。

 ――いいけど、どうして?

 いつもなら僕がラインを送ってもすぐには返事が返ってこない。二時間目までの休憩は十分しかない為、僕はスマホをバッグにしまい次の授業へ向かおうとした。するとスマホが振動したのだ。

 ――返信早いでしょ。びっくりした? 病院暇でさあ。

 ――うん。ビックリ。今日の夜にでも日記持っていくよ。

 そう送った途端、既読マークが付いた。京香にラインを送りすぐ既読になったのは初めてである。

 ――ありがとう。待ってるね。岡先生。

 改めて「岡先生」などと京香に言われるとなんだか照れくさくなってしまう。そういえば、僕が投げ掛けた質問――どうして日記を借りたいのか――に対する返事はもらっていない。

 短い休憩時間は終わり次の授業が始まろうとしている。僕は再び音楽室へと向かっていった。

 そしてばたばたと教育実習初日が終わる。明日からは部活動も見なければならない。三年前まで所属していた吹奏楽部の指導も楽しみである。

 校舎を後にした僕は正門の外から音楽室を見上げた。紅葉にはまだまだ早いものの、校舎を囲む緑は少し鮮やかさを失っていた。僕はサドルにまたがり日に日に涼しくなっていく爽やかな秋の風を受けながら坂道を下っていった。





 僕は一旦実家に戻り日記をリュックに入れると再び家を出る。病院に着いた頃、辺りは闇に包まれていた。先日夢の中で来た病院に今日は現実世界の中で来ている。なんだか不思議な気分である。あのババア看護師は今もいるのだろうか?

 僕はババア看護師に見つからないよう辺りをキョロキョロ見回しながらエレベーターへと乗り込んだ。

 既に退職している事を願いつつ三階で降りると数人の看護師達が廊下を行き来していた。最初の角を曲がるとナースステーションが目の前にあるはずである。曲がり角の壁から半分だけ顔を出しナースステーションを覗き込む。

 よし。いない。ほっとした僕は堂々と京香の病室へ向かった。京香からラインで聞いていたのは三二三号室。

 その部屋はすぐに見つかった。ドアをノックすると、「どうぞ」と聞き覚えのある声が飛んできた。もちろん京香の声であるけれど、その声は心なしか元気がないように聞こえた。

 ドアを開けると白衣を着た看護師が部屋から出ていく所だったのだ。あのババア看護師である。

「あら、京香ちゃん、彼氏?」

「違いますよ。同級生です」

「あら残念。いい男なのに。あら? 何処かでお会いしたかしら?」

 その看護師は僕の顔から足の先までを目で何度も往復しながらなめるように見ている。気付かれるのだろうか。僕にとっては数日前の事だけれど看護師さんにとっては三年前の出来事なのだ。忘れていてくれ。

「いえ、始めましてかと……」

「あらそう。デジャブかしらね。京香ちゃん、お大事に」

「はい。小泉さん、ありがとうございます」

 僕は先日の夢の話を京香に伝えた。





「ハハハッ! そんな事があったんだ。結菜ちゃんにも謝っておいてね。小泉さん、超いい人なんだよ。まあ、知ってるはずのない情報を知ってんだから危ない人達だと思ったんだろうね。でも、三年前、私と一致したドナーさんは紗綾ちゃんだけだったの。他にはいなかったらしいの。その事は昨日小泉さんに確認したのよ」

 これで二人共助ける方法はなくなってしまった。次の方法を考えなければならない。

「そっかあ。あ、ところでこの日記、どうするの?」

 僕がそう訊くと京香は慌てて目をそらした。

「あ、うん。ちょっと紗綾ちゃんに伝えたい事があってね。あ、でも変な事言わないから安心して」

 日記の最初のページさえ読まれなければいいのだ。この日記をここに置いて帰る事で今日は紗綾に逢えないけれど、他ならぬ京香の頼みである。

「日記を読みたい訳じゃなくて夢を見たいだけだよね?」

 僕は念を押した。

「うん。そうだよ」

 京香はわざと元気に振る舞っているけれど、僕は何か胸騒ぎがした。

「京香……大丈夫なのか?」

「何言ってんの。今すぐにでも退院できるくらい元気よ。検査の為に入院してるだけだから」

「ならいいけど……。じゃあ、僕帰るね。明日日記取りにくるよ。あ、メロンはもうちょっと待ってて。教育実習が終わるまでに諒太と一緒に買ってくるからさ」

 京香は口角を上げ微笑んだ。けれど、目は笑っていない気がした。

「あ、メロンか。私が退院してから退院祝いに買ってくれればいいよ。三人で食べよ」

「そか。それもいいね。諒太にも伝えとくね」

 僕が帰ろうとすると京香は僕を呼び止めた。

「そうだ、ヒロ。ブラックホールだっけ? そこに入らないとはっきりとした夢は見られないんだよね? そのブラックホールに今日入れなかったら入れるまで借りてていいかな。入って紗綾ちゃんと話ができればすぐ返すから」

 京香は紗綾に何を伝えたいのだろう。ただ単にお礼が言いたいだけなのだろうか。僕は京香が納得できるのならそれでいい。

「うん。いいよ。返せるようになったら連絡してね」

「ありがとう。ヒロ、もう一ついい?」

「どうした?」

 京香は病室のテレビ台の下にある引き出しを開けた。そこから取り出したのは一通の封筒である。

「私から諒太とヒロへの手紙。教育実習が終わって石巻の寮に着いたら読んでね。それまでは絶対開封しないように。ふふっ、君たち二人へのラブレターだから」

「なんだよ。急に手紙なんて気持ちわりいな」

「そろそろ消灯時間でまた小泉さんが巡回にくるから帰った方がいいわよ」

 あのおばさんに会うのはごめんである。

「わ、わかった。じゃあ帰るね。おやすみ」

「ヒロ」

「何?」

「ううん。何でもない。おやすみなさい」

「お……おう」

 ――何でもない。

 その言葉に少し不安を覚えたけれど僕は京香に背を向け帰っていった。

 何か言いたい事があったはずである。京香は一体何を言おうとしていたのだろうか。