京香は諒太に抱えられ、やっとの事で起き上がった。

「もう! あなた本当に私の事好きなの?」
「うん。大好き」
「だったら何があっても私の事守りなさいよね!」
「あ、はい。でもおっぱい触ってたからつい」

 諒太と京香の漫才に寮母さんは大笑いしている。

「あなたたち、お似合いよ。仲がいいのね」
「寮母さん、聞いて下さいよ。このゴリラとは高校の時から同じ吹部だったんですけど、今年になって私のおっぱいが大きい事を知って好きだって言い始めたんですよ。だからこのゴリラは私の体が目当てなんです。最低だと思いませんか!」
「まあまあ、ちやほやされてる内が華ですよ。私も若い頃は結構男性にもてたんですよ。うふふっ。でもね、その頃お付き合いしてた彼、といっても主人なんですけどね、彼がヤキモチ焼きでねえ。他の殿方と話をするだけでも怒ってしまってね」

 寮母さんは遥か昔を懐かしむように遠い眼差しをしている。

「えー、そうだったんですか。寮母さん、やるう。モテモテだったんですね。でも諒太《こいつ》はね……」

 京香はそこまで言うと口を開けたまま言葉を止めた。

「京香……どうした?」

 京香はぴたりと止まったまま動かない。けれど、よく見るとぴたりと止まっている訳ではなかったのだ。小刻みに体全体が震えている。

「京香、大丈夫か」

 京香の震えは止まらない。その視線の先には壁に掛けられた額《がく》がある。品のある木目模様で囲まれた額。以前この部屋を訪れた時にも見た額である。賞状が入っている訳ではない。大事そうに手紙が飾られている。

 その時は亡くなったお孫さんからの手紙だと思っていた。僕は手紙の文字が読める距離まで近づいた。

『親愛なるドナー様へ』

 冒頭にはそう書かれている。

 僕は理解した。これは紗綾が骨髄を提供した患者さんから送られてきた手紙なのだと。

 骨髄液を提供するドナーと患者は会うことができない。もちろん、お互いの名前や住所も教えてもらう事さえできない。

 唯一許されているのが手紙のやりとりなのだ。日本骨髄バンクを介してやりとりするものらしい。個人の情報が伝わる内容の手紙ではないか確認する為、骨髄バンク側で一旦開封しチェックされるのだ。

「寮母さん、これ読ませてもらってもいいですか?」
「ええ、いいわよ。紗綾は死んでしまったけれど、この患者さんの中で今も生きてると思うと救われた気持ちになるの。私の事を『ばーば、ばーば』と呼んでくれてね。親バカならぬ、祖母バカかもしれないけれど可愛くてね」

 寮母さんは手紙を見つめ再び昔を懐かしむように幸せそうな表情をした。

『親愛なるドナー様へ』

 この度は骨髄を提供していただき本当にありがとうございました。私は今、こうやって生きています。こうやって手紙を書いています。大好きなユーフォニアムを吹く事もできます。あ、ユーフォニアムなんて楽器、ご存知ない方も多いですよね。チューバの小さいやつです。チューバ自体がマイナーなので説明になっていませんね(笑)

 なんの痛みも感じる事なく朝目覚める事。
 自分の足で歩く事。
 母と一緒に料理をする事。
 学校に行くと友達の笑顔が見られる事。
 部活動ができる事。

 そんな当たり前の事が当たり前のようにできる日常を送らせていただいております。病気をする前は自分の足で歩ける事がこんなに幸せな事だったなんて気づきもしませんでした。

 産まれた時間も産まれた場所も全く違う私とドナー様を引き寄せてくれたこの奇跡にも感謝しておりますが、なんといってもドナー様の勇気と決断力には何度感謝してもしきれない思いです。

 本当にありがとうございました。

 一度は諦めかけたこの命、大切にしてまいります。ご家族の方々にも宜しくお伝えくださいませ。

          命を繋いでいただいた少女より。


 僕が読み終えると京香は崩れ落ちた。

「京香、どうした!」

 諒太が京香を支えると、諒太の厚い胸に顔を埋め大きな声で泣き始めた。

「この手紙……」

 何かを僕たちに伝えようとするも、涙のあまり声が続かない。

「京香、どうした。京香には俺たちがついてるんだ。落ち着いて話してごらん。この手紙がどうしたんだ?」

 諒太は我が子でもあやすかのように優しく京香を包んでいる。

「あり……ヒック……がとう」

 諒太は自分のTシャツで京香の涙を拭う。

「俺たち親友だろ」

 京香は寮母さんに向かい正座をした。そして両手を床につき頭を下げた。

「寮母さん、申し訳ありません。この手紙を書いたのは……私なんです。紗綾ちゃんから骨髄液を提供していただいたのは私という事になります。大切なお孫さんを殺してしまったのは私だったんです。本当に申し訳ありません」

「そんな……」「えー!」「嘘っ!」

 僕たちはぶったまげた。もしも紗綾に骨髄液の提供をやめるように言えば京香は十八歳で死んでしまうかもしれない。けれど、骨髄液を提供してしまえば紗綾は二度と生き返らない。

 紗綾を助ける為に家宝の日記を僕に託した寮母さんは二度と紗綾に会う事ができない。寮母さんは紗綾を恨むのだろうか。

 僕は寮母さんの顔を恐る恐る覗いた。けれど、京香を見る寮母さんの顔は、京香を恨むどころか優しく穏やかな表情だった。

「京香さん、どうか頭を上げて下さい。あなたが患者さんだったなんてこれも運命だわ。紗綾はあなたの中で生きているのね。紗綾を生き返らせる事は諦めます。だってこんな素敵なお嬢さんの中で生き続けているんですもの」

 京香は寮母さんの優しい言葉を受け再び涙を流し始めた。

「わーん。ヒック。わーん」

 諒太が京香以上に泣き始めた。

「寮母さん、ありがとうございます」

 京香はそう言って寮母さんに対し再び頭を下げた。

「ほら、そうやって頭を下げないで下さいな。あ、そうだ。たまに家にお泊まりにいらしてもらえない? 男子寮だけれど、私の部屋に泊まっていただければ問題ないし。ね、そうすれば私も紗綾と一緒にいられるから」

「はい。寮母さん、お言葉に甘えてお泊まりさせていただきます」

「寮母さんじゃなくて『ばーば』よ」

 寮母さんはそう言って京香にウインクをした。

「はい! ばーば」

 寮母さんと京香はきつく抱き合った。