――二〇一九年 八月二十日。

 夏休みに入り八月一日から今日までの約二十日間、僕は東京の実家で過ごしていた。

 まだ夏休み中ではあるけれど、九月から始まる教育実習の準備やサークルの集まりなどがある為、昨日の朝早く東京を発ったのだ。新幹線で一時間半、在来線に乗り換え三十分。僕は寮の最寄り駅で降りた。

 お盆を過ぎたとはいえ暑さはまだまだ残っていた。

 まだ午前中であるにも関わらず、ジリジリとアスファルトが焦げていく音さえ聞こえてきそうな程の強い日射し。重い日記を入れたリュックとサックスの入ったシャイニーケースを持つ僕にとっては悪魔のような日射しが遠慮なく降り注いでいた。

 このまま寮までの道のりを歩くのかと思うと気が遠くなってしまう。

 この重い日記を実家に持って行った事で毎日紗綾の夢を見る事ができたのだ。けれどブラックホールに入る前の「普段通りのぼやけた景色の夢」でしか紗綾に逢う事はできないのだ。

 実家にいる僕が夢の中でブラックホールへ入ってしまうと、そこは三年前の東京なのだ。紗綾は石巻にいる為、逢う事ができない。
 
 あれだけ楽しみにしていた紗綾との時間ではあるけれど、今は彼女を助けてやるんだという期待と、彼女を失うかもしれないという不安を抱えながら布団の中で目を閉じている。

 けれど死んでしまう理由を彼女は教えてくれない。病気ではない。だとしたら……車に轢《ひ》かれそうになった誰かを助ける為に犠牲になったのか。もしくは何かのトラブルに巻き込まれ、ナイフで刺されそうになった誰かを助ける為に犠牲になったのか。僕にはそれくらいの事しか思い付かない。

「それが私の運命なんだから」
「未来は変えちゃいけないんだよ」

 いつもそう言ってはぐらかされてしまうのだ。

 けれど今朝見た夢の中で僕たちの関係に変化が現れた。


 ※ ※ ※


「ヒロ君!」

 ブラックホールに入らずしばらく待っていると、紗綾がそう言って僕に抱きついてきた。

 以前京香と一緒に夢の中に入った時、京香を置き去りにして紗綾を追いかけた。そして川辺で紗綾と初めて唇を重ねたのだ。

 それ以降京香に、

「ヒロは夢の中で私を置き去りににして彼女を追いかけた最低な男」

 と、冗談まじりで何度も言われてきた。

 確かに右も左もわからない夢の中で京香を置き去りにしてしまったのだ。その事は反省している。

 けれど、紗綾にとってみればその事が嬉しかったようだ。

 僕たちは逢う度に唇を重ねるようになっていった。ブラックホールへ入る前の「ぼやけた夢の中」であっても、ブラックホールを抜けた「夢の中の現実世界」であっても、それは同じであった。

 そして今朝も南棟の壁際で紗綾の唇を奪っていた。

「ヒロ君、お部屋……行く?」

「へ……部屋って……」

 少しどもってしまったものの、彼女が言わんとする意図は理解できた。

 僕たちは手を繋ぎ寮へと入っていく。食堂に入ると壁に掛けられた時計は早朝である事を示していた。

 僕は南棟へ続く扉に鍵を差し込んだ。しかし壁は回らない。

「あれ? 開かない」

 紗綾はにやりと笑みを浮かべポケットから取り出した鍵を壁穴に差し込む。「カチャッ」と音を立て鍵が回転したのだ。

「今は二〇一六年なのよ。ヒロ君の鍵で扉が開く訳ないでしょ」
「あ、そっか。え? でもなんで紗綾がここの鍵を持ってるの?」
「いいから、早く」

 僕は紗綾に手を引かれ南棟へと向かっていった。二階にある僕の部屋の前までくると、紗綾は再び鍵を取り出し扉を開けた。

「なんで僕の部屋の鍵を持ってるの?」
「だから今は二〇一六年なんだってば。ここはヒロ君の部屋じゃなくて私の部屋なの」
「あ、そっか。え? 紗綾がここに住んでたの?」
「いいから早く中に入って。誰かに見つかったら大変。さあ、早く!」

 部屋に入るとピンクのカーテンが僕の目に飛び込んできた。

「わっ、ほんとだ。僕の部屋じゃない」
「二〇一六年、ここは私の部屋だったの。音大生専用の寮なんだけど両親を津波で失った私はお爺ちゃんの経営するこの寮に二〇一一年の震災以降住まわせてもらってるんだ。でも私は来月死んじゃうの。まあ、そのお爺ちゃんも私を追うように再来月癌で亡くなっちゃうみたいなんだけど。そこでお婆ちゃんは私を助ける為にここを男子寮にしたの。この部屋に住む男性が夢をみて私の事を好きになれば私の事を助けてくれるんじゃないか。そう思ったらしいの。それで我が家の家宝である日記をこの部屋に置いて男性の入居者を募集したって訳」

「寮母さんが紗綾のお婆ちゃんだったんだね。紗綾を助ける為に全棟を男子寮にする必要があったのか。僕、紗綾の事……助けたい。いや、絶対助ける。たった一人の女の子を助ける事によって未來に歪《ひず》みが起きて、産まれるはずだった子供がうまれなかったり、産まれるはずのない子供が産まれたり、トランプが大統領選に負けたり、そんな事は僕には関係ない。絶対紗綾を助ける」

 すると僕に紗綾が抱きついてきた。僕たちは再び唇を重ねお互いを求め合った。

 ベッドへ向かうまでの間も唇は触れたままだった。

 仰向けになった彼女の瞳に僕が映っている。

「紗綾……」
「うん。いいよ」


 僕たちは……結ばれた。


 僕の腕枕の中で瞳を閉じる彼女。その閉じられたはずの瞳からぽとりと何かが僕の腕へと落ちてきた。

「私……生きたい。本当は生きたい。生き続けたい」
「紗綾……」


 ※ ※ ※


 そこで僕は目覚めた。

「お兄ちゃん! 新幹線乗り遅れるよ! お兄ちゃんってばー!」

 妹の声で夢が断たれてしまったのだ。

 いいところで起こすんじゃねえよ。

 起こされた瞬間、妹を恨んだけれど時計を見た僕は飛び起きた。慌てて支度をし、両親への挨拶もそこそこに家を飛び出していったのだ。

「来月教育実習の時、また帰ってくるから。じゃあね」

 朝両親へ言った言葉はそれだけである。

 僕は小田急線に乗りJRに乗り換え東京駅へと向かって行った。

 そして昨日、こうやって寮への道のりを歩いたのだ。数分の間に日射しは更に強くなっていた。

 寮の門を潜った頃、僕は汗だくだった。

「寮母さん、ただいま。また今日の夜から食事お願いします」

 僕は寮母さんにそう挨拶をして部屋へと向かっていった。

 部屋の扉を開けると、そこは紗綾の部屋ではなく紛れもなく僕の部屋だった。遮光カーテンもベッドの掛け布団も僕の物である。

 何もする気が起きず、僕はベッドに寝転んだ。

 
 そして今朝、いや、三年前、僕はこのベッドで紗綾と結ばれたのだ。なんだか複雑な気持ちが入り交じり、僕はしばらく天井を眺めていた。

 僕は彼女を助けたい。助けなきゃいけない。寮母さんに話をしなければ。

 そう感じた瞬間、僕はスマホを手にとった。連絡したのは諒太と京香である。

 僕は恥を捨て涙ながら二人に協力を求めた。