二人の怒りはなんとかおさめ――おさめてくれたのはアルコールだけれど――穏やかな飲み会になってきた。

 京香はソファーで寝る事になり、諒太はソファーの下の絨毯で寝る事になった。

 七月なので二人ともタオルケット一枚で充分である。

「さあ! 寝るぞー! ヤッホー!」

 諒太は相も変わらずわくわくしているようだ。夢の中で京香に余計な事をしなければいいのだけれど……。そんな一抹の不安が過る。

 次第に京香の寝息が聞こえてきた。僕は少し飲み足りなくてベッドから降りた。諒太の寝床を確保する為に隅に追いやられたテーブルに、乾杯の時に注いだ諒太のシャンパンが残っている。僕は発泡性を失ったそれを喉の奥へと流し込んだ。

「炭酸抜けてるし……」
「ヒロ、まだ飲んでんのか?」

 眠ったと思っていた諒太が声をかけてきたのだ。

「ああ、でももう寝るよ。わりいな起こしちゃったか」
「いや、俺もまだ眠れてなかったんだ。おやすみ」

 眠った京香を起こさないよう、諒太は小さくかすれた声でそう言った。

「おう、おやすみ」

 僕もかすれた声で応えた。

 再びベッドに寝転ぶとあっという間に睡魔に襲われていった。


 ※ ※ ※


 僕は南棟の外――僕の部屋の真下――に立っている。いつもの夢の中である。辺りは闇に包まれている。と、いうことはまだ深夜か夜明け前なのだろう。

「もう! ヒロ。遅いよー」

 背後から女性の声が飛んできた。紛れもなく京香の声である。振り向くと、少しすねたような顔をした京香が立っていた。

「ごめん、ごめん。なんだか眠れなくて飲んでたんだ。あれ? 諒太は?」
「いないよ。ずっと一人で待ってたんだからね! しかしほんとに夢の中に入れるなんて……」

 京香は辺りをあちこち見回しながら初体験の夢の世界に驚いている。

「そっか。じゃあ諒太はまだ眠れてないのかもね。諒太の事、待つ? それとも二人で行っちゃう?」
「行くってどこに?」

 僕は京香の後ろを指差した。

「あのブラックホールの中。今夢の中にいるんだけど、普段の夢みたいに景色がぼやけて見えるだろ? でもあのブラックホールに入ると現実世界のように景色も人の顔もはっきり見えるんだよ」

 京香は後ろを振り向き僕が指差した方向に目を向けた。けれどブラックホールは見えないようだ。

「見えないよ。そんなの」

 確かに僕も最初から見えた訳ではない。ある日突然見えるようになったのだ。

 一時間ほど諒太が来るのを待っていたけれど現れる気配がない。この夢はいつも突然終わってしまうのだ。このまま諒太を待っているうちに終わらないとも限らない。東の空が白みかけた頃、僕は京香の手を引きブラックホールへと飛び込んだ。

 いつものようにぐるぐると体ごと回っている。京香は「キャー!」と悲鳴を上げる。京香を少しでも安心させる為、僕は彼女の細い手をしっかと握りしめていた。

「ギャー! 助けてー!」

 京香は何度も何度もそう叫んだ。初めての体験なので悲鳴を上げるのも当たり前だろう。

「よっこいしょ。京香、ほら、もう大丈夫だよ」

 目を回してしまった京香は千鳥足よろしくふらふらとよろけた後、全体重を預けるように僕の胸に顔を埋めた。僕は彼女が倒れないように両腕で抱き締めた。

「ほら、大丈夫か?」

 ようやく正気に返った京香が顔を上げる。

 ――近っ!

 今にも唇に触れてしまいそうな距離である。僕たちは慌てて離れる。

「だ、大丈夫。しかし何だったの? 今のグルグルは」
「あれはこの世界への通り道みたいなもんだよ。限りなく現実に近い夢の中。どう? 夢のはずなのに景色がはっきり見えるでしょ?」

 京香は目を大きく見開いて周囲を見渡した。

「ほんとだ。現実の世界みたい。凄っ!」

 京香は建物の壁を触ったり、地面に落ちている石ころを拾ったりしている。夢の世界だとはまだ信じられないのだろう。

 すると僕たちの後ろからいつもの声がした。いや、いつもの声とは少し違う。明らかに機嫌を損ねた声色である。

「ヒロ君の嘘つき! 男の人なんていないじゃん! その人と二人で仲良く寝たんでしょ!」

 そう言うと紗綾は踵を返し駆け出した。

「京香、ここで待ってて。ごめん」

 僕は紗綾を追っていった。「紗綾! 違うんだってば。待ってよ」何度もそう叫びながら追いかける。

 紗綾は以前に二人で行った川岸に向かったようだ。彼女を追いかけ防波堤に登ると川縁に腰を下ろしていた。

 僕はゆっくり彼女に近づき隣に腰を落とす。

「紗綾の勘違いだよ。あっ、でもこの状況なら信じられないよね。ごめんね、変な心配させちゃって。本当に男の友達も泊まってるんだよ。ほら、前に言ったでしょ? 京香の事を好きな親友がいるって。そいつが一緒に泊まってるんだけど何故か夢の中に入ってこれなかったみたいなんだよね。あ、嘘じゃないよ」
「ふふっ、必死に言い訳するのね。わかった。信じてあげる。でも……今回だけだぞ」
「うん。わかった」

 僕たちは今、さやさやと流れる川面へ向かい座っている。そして彼女の顔が僕へ向けられた。そんな紗綾の視線を見て見ぬ振りをした。

 けれど、僕も紗綾の顔を見ずにはいられなかった。自分の心に向き合い、彼女の目をまっすぐ見つめた。

「紗綾、好きだよ」

 紗綾は戸惑い川原の石へと目を落とす。

「私……も。ヒロ君の事……」

 そう言って顔を上げた彼女の瞳が徐々に近づいてくる。そして瞼を閉じた。

 僕は彼女の唇に指を滑らせた後、おもいっきり抱き締めた。そして僕たちの唇は……重なった。

 その後、彼女は僕の肩に体を委ねた。ふんわりとしたコンディショナーの香りがぷんと僕の鼻を刺激した。

「ヒロ君の事、好きだよ。でも、今からでも遅くないよ。彼女の事……京香さんの事……大切にしてあげて。私ね、もうすぐ死んじゃうんだ」

 突然の告白に心臓が止まったかのように一瞬息ができなくなってしまった。

「ごほごほ」とむせた後、ようやく言葉を発する事ができるようになる。

「どういう事なの? 紗綾、病気なの?」
「ううん。病気なんてした事ないよ。今もぴんぴんしてる」

 紗綾は無理矢理作った笑顔でそう言った。

「じゃあ、どうして? 病気なら諦めもつくけどさ、病気でもないのに紗綾の事を失うなんて……」
「ふふっ。ありがとう。でもね、未来は変えちゃいけないんだよ」

 ※ ※ ※


「おっはよー! 起っきろー!」

 僕はよくわからない騒音に起こされ、目を擦りながらベッドから降りた。

「ふぁー。なんだ、京香か。おはよ」
「おー! ヒロ選手、一番に起きましたね。おりこうさんです。さて、諒太選手。いつになったら起きてくるのでしょうか。おーい! 諒太くーん」

 なぜだか京香は朝からテンションが高かった。何かいい事があったのだろうか。それとも嫌な事が起きた後の空元気なのだろうか。

 すると諒太が目を覚ました。右目を開き、続いて左目を開いた。

「お、諒太選手も起きましたね。さあ、京香ちゃん特製の朝食ができてますよー」

 やはり京香のテンションは高い。きっと何かあったのだろう。

 例によって和食と洋食が用意されていた。僕たちは自然と自分の座るべき椅子に座り、愛情溢れた京香の朝食を堪能した。

「そう言えばお前ら、夢は見たのか?」

 諒太の質問に京香は下を向いた。

「おう、見たよ。京香は夢の中に来たけど、お前現れなかったよな」
「そうよ。現実世界にいるみたいに凄い夢だったんだよ。あんた、何してたの」

 諒太は目の下にクマを作っている。

「まじかあ、夢の中に入れるのが楽しみで全然眠れなかったんだよね。最後に時計を見た時は八時半だったから、多分三十分くらいしか眠れてないと思う」

 だから諒太は夢の中に入ってこられなかったのだろう。やはり、修学旅行前夜の六年生と同じ精神状態だったのだ。

「私ね、もうすぐ死んじゃうんだ」

 僕はその言葉がどうしても気になった。

 本当に紗綾は死んでしまうのだろうか。

 病気ではないと言っていた。

 きっと何か方法があるはずだ。きっと……。