僕は三年前にタイムスリップしていたのだ。何か意味があるのだろうか。僕が三年前に行く事に。

 誰かが意図して僕を行かせているのか。それともこの部屋に住む者は意味もなくその世界に行ってしまうのか。

「ねえ、ヒロ。この日記によると昨日寝た時は夢を見なかったって事だよね」

 京香は細くて長い指をこめかみにあてがい、何やら考え込んでいる。

「うん。この部屋で寝て夢を見なかったのは初めてなんだよ」
「昨日の夜、普段と違うような出来事とかなかった?」

 京香にそう訊かれ、考えてみるものの特に変わった事など思い付かなかった。

「うーん。強いて言えば夕飯を食べ過ぎてお腹を壊した事くらいかな」
「もう! 食べてる最中にそんな報告いらないわよ! 他にはなかったの?」

 京香は口に運びかけたカレーを元の器へ戻した。

「そう言えばトイレに駆け込んで……」
「だからシモの話はいいってば!」
「ごめん、ごめん。でもそうじゃなくて、トイレにこの日記を持っていったんだけど、そのまま置き忘れてきちゃってさ。気づいたのは今日の朝だったんだよ」

 京香は再び指をこめかみにあてがうと、

「それよ!」

 そう言って人差し指を僕に向けた。

「それって?」
「夢を見る条件よ。この部屋で眠る事じゃなくて、その日記が置いてある部屋で眠る事……それが『夢を見る条件』なのよ。まあ、だからといって私や諒太も見られるかどうかはわからないけどね」

 確かにそうかもしれない。四月にこの部屋に越してきてから夢を見なかったのはゴールデンウィーク中と京香のマンションに泊まった時、そして昨日だけである。

「いやあ、早く見てみたいなー。京香と同じ夢の中で会えるなんて夢のようだよ」
「夢のようって、夢だから」
「あ、そか」
「諒太、念を押しておくけど、夢だからって変な事しないでよ。いい? 約束よ! わかった?」
「はーい」

 園長先生に呼ばれた園児のように、諒太は満面の笑顔で右手を高々と上げた。こいつ、絶対わかってないな。

 諒太のグラスには乾杯の時に注いだシャンパンが半分以上残っている。

「諒太、お前、今日は飲まないのか?」
「あ、うん。飲まない訳じゃないけどちびちびいこうと思ってさ。先週みたいに酔っぱらって先に寝ちゃったらつまんないしね」

 諒太は立ち上がり、冷蔵庫からノンアルコールビールを取り出した。

「諒太、何それ! ノンアルコール禁止ー! はい、ビール持ってらっしゃい」

 京香は既にシャンパンのボトルを抱えている。けれどまだ酔っている様子はない。

「えー」
「なんか文句でもある?」
「いえ、飲みます」
「よろしい」

 万が一、いや、億が一、諒太の恋が成就したとしても、尻に敷かれるのは間違いなさそうだ。僕はなんだかおかしくなりぷっと吹き出した。

「ヒロ、何がおかしいの?」
「いや、別に」

 僕はそれ以上京香に突っ込まれないよう冷蔵庫へ向かった。甘口の赤ワインのコルクを抜きワイングラスに注いだ。少し冷え過ぎてしまったけれど、僕は冷えた赤ワインも嫌いではない。

「あ、そうだ。ねえヒロ」

 何かを突然思い付いたかのように京香が声をあげた。

「な、何?」

 京香の元気な声に押されるように僕は少し身を引いた。

「あのさ……」

 何かを企んでいる悪ガキのようにとっても悪い顔をしている。この悪い顔、妹の結菜と同じ雰囲気を持っている。嫌な予感しかしない。

「だ、だから……何」
「この日記さあ、私に何か書かせてよ」
「無理無理無理無理無理無理……」

 何度無理と言ったのかさえ覚えていない。けれどそれだけは無理である。

 これは僕と紗綾を繋ぐ大切な日記なのだ。僕以外の人間に書かせる訳にはいかない。他人が日記に何かを書いてしまえば、日記のやり取りができなくなるかもしれない。まだ、何も解明されていない日記たのだ。絶対無理である。

「いいじゃん! ケチ!」

 ケチとかの問題ではない。それに、軽々しく「いいじゃん」とかで片付けて欲しくない。

「ケチって……。無理なものは無理」
「じゃあ、ヒロが何か書いてみてよ」
「あ、それなら……いいけど……」

 僕は日記を開き、ペンケースから2Bの鉛筆を取り出した。


 ▽ ▽ ▽


 紗綾、今日は二人の友達が僕の部屋に泊まりにきたよ。

 三人でこの部屋に眠れば三人とも紗綾に逢えるのかな?


 △ △ △


「書いたよ。これでいいね」

 僕は日記を閉じ本棚へ戻した。

「いい訳ないでしょ! この後の紗綾ちゃんからの返事が見たいんだから。早く! 日記、持ってきて」

 京香は日記をここに置けと言わんばかりにテーブルをとんとんと叩いた。

 しょうがなく、さっき書き込んだページを開き日記をテーブルに置いた。

 僕は空になったワイングラスに赤ワインを注ごうとした。その隙を狙い、京香が最初のページをめくろうとした。

「京香!」

 僕が京香をきっと睨むと彼女は手を引っ込めた。

「まじ、絶交するぞ」
「あぅ……ごめんちゃい」

 塩を掛けられたナメクジのように京香は小さくなった。おそらく今の京香は160cmくらいだろう。なんだか可愛くて僕は少し口角を上げた。

 すると日記に変化が現れた。最初に気づいた諒太が大声をあげる。

「わっ! お前ら、これ見てみろ!」

 諒太の視線の先にある日記には文字が浮かび上がっている。


 ▽ ▽ ▽


 友達? 二人とも男子でしょうね?

 まさか、私以外の女の子を寮に泊めたりしないよね?


 △ △ △


「はあ? なんだこれ! ヒロが言ってた事……本当だったんだな。こりゃすげえや」

 諒太は浮かび上がった文字を見て驚いている。

「はあ? 何これ! あたかも『ヒロの女は私よ』的なこの文章! 許せない!」
「そこかよ」

 京香の頭から湯気が出ている。けれど普通の水を沸騰させた百度のお湯から出ている湯気ではない。パスタを茹でる為に食塩を加えた時のような、かなり高温な湯気である。

「ヒロ! どういう事?」
「熱そう。あ、いや、どういう事も何も……」

 僕は再び鉛筆を握った。


 ▽ ▽ ▽


 男性一人と女性一人。二人とも僕の親友なんだ。


 △ △ △

 
 僕は女性もいる事を正直に伝えたのだ。

 僅か五分後、紗綾からの返事が返ってきた。


 ▽ ▽ ▽


 ああ、この前話してた、ヒロ君が気になってる背の高い女性ね。

 喋らなければいい女って人の事でしょ? ヒロ君、彼女の事好きなんだもんね(怒)

 なんかジェラシー(泣)


 △ △ △


 余計な返事を書いてくれたものである。瞳孔の開いた四つの瞳が僕を見ている。

「ヒロ、私の事……」

 初めて告白された女子中学生のように京香の瞳はうるうるしている。

「いや、違う。そうじゃない」
「はあ? 違うの?」
「あ、いや、違わない」

 しどろもどろしている僕に、今度は諒太が噛みついた。

「違わないだと? ヒロ、てめえ……京香の事……」
「あ、いや。違う。そうじゃなくて……」
「はあ? 違うですって?」

 と、今度は京香。

「いや、そうじゃなくて」

 夢なら早く覚めてくれー!