僕たち三人は夕方まで一緒に過ごした。ランチをしたりショッピングセンターに行ったり。楽しい土日を過ごす事ができた。

 僕は駅前の商店街をいつものように通る。ついこの前まで、この時間にこの商店街を通った時、陽は沈んでいた気がする。

 次第に陽は長くなってきているのだろう。
 
 けれど、僕が寮に着いた頃、既に辺りは闇に包まれていた。少しの街灯と民家の窓から漏れる灯りが灯っているだけである。

 昨日今日と続いた梅雨晴れは終わりを告げようとしているらしく、月は厚い雲に覆われている。

 寮に帰ると夕食の時間が既に始まっていた。僕は南棟へ向かう事なく食堂の席に座った。
「岡君、お帰りなさい」
 寮母さんの温かい笑顔が僕を迎えてくれる。
「あ、寮母さん。来週の土曜日なんですけど、男の友達が二人泊まりにきます。でもやつらの食事はコンビニかなんかで買ってこさせますので作らなくても大丈夫です」

 ここは男子寮である。わざわざ「男の友達が」と言わなくても「友達が」と言えば済む話である。おそらく少しの罪悪感が「男の友達」と言わせたのだろう。
「あら、いいのに。食堂で食べさせてあげれば?」

 そういう訳にはいかない。もしも誰かが京香に話しかけでもしたら返事をしない訳にはいかないのだ。あんなに澄んだ声の男などいない。
「あ、いや。大丈夫です。やつら今、コンビニのお弁当にハマってて」
 そんな奴いるのか? 我ながら下手な嘘に嫌気がさした。
「あらそうなの。ならしょうがないわね」
 寮母さんはあっさりと僕の下手な嘘を信じてしまった。おそらく亡くなったご主人が浮気をしてたとしても、ご主人の嘘を信じてしまい浮気に気づかないタイプなのだろう。

 僕は肉じゃがとご飯をおかわりしお腹を満足させた。そして食器を返却口へと運ぶ。
「寮母さん、ごちそうさまでした。肉じゃが、ちょーうまかったです」
「ありがとう。お粗末様でした」
 寮母さんのいつもの言葉と笑顔が返ってきた。

 部屋に戻りいつもと違う赤ワインを冷蔵庫に入れた。

 そして僕はベッドに寝転び瞼を閉じた。

 こんな時、脳裏に過るのはいつも夢の中の少女の姿である。けれど今日は違う。

 そこにいるのは京香だった。そして怒りに奮えたゴリラが顔をだす。
「わっ!」
 僕は思わず体を起こす。

 これから先京香の事を思い出すと、もれなく諒太の事も思い出すのだろうか。まあ、それでもいい。

 ――僕は諒太を応援しているのだから。

 昨日の夜の事は僕だけの秘密なのだ。
 そうだ、その思い出を日記にしたためよう。たった一ページで完結する日記として封印しよう。

 僕は学校用の鞄からルーズリーフを取り出した。けれどルーズリーフでは何か物足りなさを感じる。
 
 ――あっ、日記がある。

 僕は本棚から日記を取り出した。調度いい。これに書いてあとはしまっておけばいい。僕が七十歳くらいになり、押し入れの中からこの日記を見つける。その時、懐かしく思えればそれでいい。

 僕は日記を開く。そしてペンケースから2Bの鉛筆を取り出した。


 ▽ ▽ ▽

 六月二十日――晴れのち曇り。

 昨日僕は、産まれて初めてキスをした。

 二十一歳というかなり遅いファーストキスだった。

 檸檬の味?

 味など覚えていない。

 彼女の事が好きなのか。それさえもわからない。

 けれど彼女の唇から伝わってきた温もりは覚えている。

 この事は誰にも言えない。誰にも……。

 そう。これは……。

 僕だけの秘密なのだから。

              岡 広海

 △ △ △


 そして僕は日記を本棚に戻した。
 
 ベッドに横たわるといてもたってもいられなくなる。シャイニーケースからサックスを取り出し何かを忘れる為に吹き続けた。

 次第に額から汗が吹き出してくる。けれど、そんな事は気にならない。僕は吹いて吹いて吹き続けた。

 納得いくまで吹き続けた僕は、楽器の手入れさえもせずシャワーを浴びた。

 スッキリした僕は風呂上がりに冷蔵庫を開ける。

 そこにはいつもと違う赤ワインが。

 ――辛口。

 ほんの少し大人になったのだと勘違いした僕は、寮へ帰る途中にスーパーで買ったのだ。

 辛口、フルボディーの赤ワイン。

 ワイングラスに注ぎ口の中で転がしてみる。

 やっぱり甘口でライトボディーのワインにすればよかった。けれどもう少し大人になれば、辛口《こっち》の方が好きになるのかもしれない。理由ははっきりわからないけれど、何故か僕はそう思った。

 慣れない辛口ワインを飲んでいるうちに、僕は眠りに就いた。



 * * *

「あっ、いつもの夢だ」
 僕は迷わずブラックホールに飛び込んだ。

 いつものように体がぐるぐる回る。しかしもう慣れたものである。最初はびっくりしたこのぐるぐるも今では日常の一部になっている。

「よっこいしょっと」

 僕が降り立った場所はいつもの空音荘の南棟。そして目の前にはいつもニコニコしている少女の笑顔……。

 ではなかった。

「紗綾。どうしたの? 顔色が悪いけど」

「ヒロ君なんてもう嫌い!」

 紗綾はそう言って走り出した。

 僕は訳もわからず全力で追いかける。

 すると紗綾が転んでしまった。

「紗綾! 大丈夫か?」

「ほっといて! 誰かととキスしたんでしょ? 嫌い! ヒロ君なんて嫌い!」

「いや、それは……。事故っていうか、その……。あ、違う。事故なんかじゃない。確かに僕も彼女を求めた。あ、いや。そういう意味じゃなくて、その……」

 支離滅裂とはこの事だ。

 嘘の苦手な僕は紗綾に本当の事を話した。



「へー。そうなんだ。ヒロ君、きっとその京香さんて人の事好きなんだよ」
「うーん。好きっていうか、友達としてしか見た事なかったし。それに親友の諒太ってやつが彼女の事好きだからさ」
「へー。そっかあ」
「まあ、キスした事も彼女は覚えてないからね。これでいいんだよ。あっ、ところで紗綾っていくつなの? 歳の話ってした事なかったよね」

 紗綾は上目遣いで僕をみた。

「いくつに見える?」

 と、よくある質問返し。

「うーん。十八とか?」

「ピンポーン! まだ十七だけどね。来月で十八だよ」

「そうなんだ。僕は二十一歳。四月に二十一歳になったんだ」

 こんなたわいもない話をしているだけで僕は楽しかった。けれど紗綾と一緒にいる『限りあるこの時間』はいつも突然終わりを告げる。

 僕はふとある事が気になった。

「紗綾、なんで僕がキスした事を知ってたの?」

「だってヒロ君、日記書いたでしょ? だからだよ」

「え? 書いたけど……どういう事?」

「私も持ってるの。ヒロ君と同じ日記」

 どういう事なのかさっぱり意味がわからない。

「どういう事?」

 ――ピピピピッ。ピピピピッ。

 * * *

 ――ピピピピッ。ピピピピッ。

 夢の中の電子音と現実の電子音が繋がりをもって響いている。
 僕は目覚まし時計を上からバンと叩いた。

 どういう事なんだろう。彼女は言った。『同じ日記を持っている』と。
 僕はベッドを降り本棚へと向かっていく。そして日記を手にとった。

 昨日僕が書いたページを開いてみる。

「はあ?」

 防音でなければ食堂まで届きそうな大きな声で叫んでしまった。

 左のページに僕の日記が書いてある。そしてその右側のページにも文字か書いてあったのだ。


 ▽ ▽ ▽

 この浮気者ー! ヒロ君なんでだーい嫌い。べーだ(笑)

 △ △ △

 たったの一行ではあるけれど、確かにそう書いてある。鉛筆やボールペンなどで書かれたものではない。あぶり出しのような浮き出た文字。

 ――同じ日記を持っている。

 そうか。紗綾なんだ。紗綾が書いたんだ。