「おっはよう! 二人とも起っきろー!」
 目を開けると僕の目の前に笑顔があった。
 その笑顔から垂れ下がる長い髪の毛の先はくるりと綺麗にウェーブしている。そうだ、京香は髪型を変えたのだ。

「あ、おはよう」
「ねえ、ヒロ」

 昨夜触れてしまった唇につい目が行ってしまう。

「どうした?」
「夢、どうだった? 見た?」

 そういえば……見てない。

「見てないかな。最初の頃は起きてちょっとしてから思い出す事もあったけど、ブラックホールに入るようになってからは夢があまりにも鮮明だから起きてすぐ思い出すんだよね」
「てことは、やっぱりヒロの寮で寝なきゃ見る事ができないんだね。じゃあ、来週の土曜日にする? ヒロん家でのお泊まり会。ねっ? いいでしょ?」
「ねえ、京香。なんか、楽しんでない?」
「ふふっ、わかる? だってヒロの夢の中に私も入れるかもしれないんだよ。なんかわくわくする」

 他人事として考えればわくわくしそうな事例なのだろう。そういえば諒太がまだ起きていない。

「諒太、おい。諒太」
 体を揺らすとようやく目を開けた。

「諒太、おはよ」
 京香の呼び掛けに諒太も返す。

「おう、京香おはよう」
 そして僕の方をみて「おはよう」と言いかけたのだろう。けれど諒太は京香の異変に気づき二度見した。

「うわっ! 京香!」
 諒太もようやく気づいたようだ。と思ったその時、諒太の殺気に満ちた強い視線を感じた。

「ヒロ! てめえ!」
 そう言って諒太は僕の胸ぐらをつかんだ。明らかに怒っている。けれど諒太は寝ていたはずだ。起きていたのか? 諒太は何に気づいて怒っているのだ。

 ――キスした事なのか?
 ――京香が眠るまで添い寝していた事なのか?
 ――手を繋いでいた事なのか?

 それとも、その全て? 

 諒太。あれは違う。僕はお前を応援しているんだ。京香も酔っていて、僕も酔っていて……。それから……。

 僕はありとあらゆる言い訳を探した。

「諒太! やめて!」
 京香が叫ぶ。けれど諒太の興奮は治まらない。

「俺が寝ている間に……」
 終わった。終わってしまった。僕はこれで大切な親友を失ってしまったようだ。

「俺が寝ている間に……京香と仲良く……京香の髪の毛をくるくるしてたのかー! 俺がやりたかったよぉ」
「えっ?」
「えっ? じゃねえよ。こんなに可愛くなるなら俺がやってあけだかったのにぃ」

 そこかよ! つか、ごつい体して少女みたいに小さい「ぉ」とか「ぃ」を入れてしゃべんなっつうの。ああ、びっくりした。

「諒太、私ね、昨日の午前中に美容院に行ってパーマかけてきたのよ。思考の回路がどう繋がればそんな発想になるのよ」
「えっ? そうなの? 京香、ちょー可愛いよ」

 言いながら諒太は僕の胸ぐらから手を離した。

「そうなの。どう? 似合う?」
「うん。似合う。ちょー似合う」

 ――おい! 僕に対する謝罪はないのか?

 いや。謝罪しなければならないのは僕の方なのだ。京香が僕の顔を引き寄せた時、口では『京香、駄目だって』そう言った。けれど抵抗はしなかった。あの時僕は「このまま京香にキスしたい」確かにそう思った。

「あ、そういえばヒロ。お前、今日は例の夢みたのか?」
 何事もなかったかのように諒太が僕に問いかける。

「見てねえよ」
「なんで怒ってんの?」

 ――この野郎!

 まあ、良くも悪くもこれが諒太である。どうしても憎めない。

「怒ってねえよ」
「ほら! ヒロちゃん怒ってるじゃん」

 ――ヒロちゃん言うな!

「ねえ、二人とも。朝食できたわよ。早く食べよ」

 カウンターキッチンの向こうから「手のかかる二人の息子」を呼ぶ母親のような優しい声がする。

 僕たちは大好きな母親に誉めてもらえるよう、「おりこうさん」をアピールするかのようにすぐにテーブルに向かった。
 テーブルの上に並べられた朝食を見たとたん、僕たち「兄弟」は驚いて目を合わせた。

 諒太用と思われるサイドには、食パン・珈琲・ポタージュスープ・グリーンサラダ・ハムエッグ。

 僕用と思われるサイドには、白米・味噌汁・味海苔・焼き鮭・ポテトサラダ・ベーコンエッグ。

「これって……」

 高校時代の吹奏楽部の合宿。

 昼食こそ合宿所近くの仕出し屋さんにお弁当を頼んでいたけれど、朝食と夕食は自分たちで作って食べていた。

 朝食に関しては「パン派閥」と「米派閥」に分かれていた。
 僕は米派で諒太はパン派だった。そして目玉焼きのトッピングについても、サラダの種類についても人それぞれの好みがあった。

 今、目の前のダイニングテーブルに並んでいる朝食は、正に僕と諒太、双方を満足させる理想のメニューである。
  京香は僕たち両方の好みを覚えてくれていたのだ。

「諒太はこっち、ヒロはこっち」

 僕たちはそんな京香の指示を受ける事なく自然と左右に別れた。

「うめー!」「うんめっ!」

 僕たちの反応に京香は嬉しそうな表情を浮かべている。

「よかった。やっぱり美味しいって言われると嬉しいな。そういえば昨日、楽しかったね。あ、諒太、来週の土曜日はヒロの寮でお泊まり会だからね。予定開けといてね」

 どうやら京香の中では来週の土曜日という事で決定事項となっているようだ。まあ僕も特に予定はないのでいいのでけれど。

「京香の頼みなら天皇陛下との晩餐会でもドタキャンするから大丈夫」
 諒太は京香に向かって力こぶを見せた。

「はいはい、ありがとう。諒太、昨日早く寝ちゃったね。お酒、そんなに弱かったっけ?」
「うん。お酒は好きだけど強くはないかな。京香たちは何時まで飲んでたの?」
「ヒロ、何時までだっけ?」

 僕の返事を待つ事なく京香は続けた。

「あ、そうだ。ヒロ、あなた日本酒飲んだ? 朝起きたら空の冷酒の瓶がテーブルに置いてあったのよ」
「え? 日本酒飲んだのは京香だよ。覚えてないの?」
「ヒロ、お前 、俺たちが寝た後、冷蔵庫から冷酒取り出して一人でチビチビ飲んでたんじゃないのか? 淋しい男だねー」
「はあ? 冷蔵庫から冷酒持ってきたのお前だぞ。京香に持ってくるように頼まれてさあ。警官みたいに敬礼しながら『はっ! 我が姫! なんなりと!』とか言いながらお前が持ってきたんだぞ。覚えてねえのか?」
「俺? まじか……」
「そうなんだ。諒太ウケるんですけど。あ、でも私もシャンパン飲んでた所までは覚えてるけどその後の記憶がないかも。私が日本酒飲んでたんだ」

 今僕には気になる事がある。あの事も京香は覚えていないのだろうか。諒太がトイレにいった隙に思いきって訊いてみる。

「あの……さ。その後の事……まったく覚えてないの?」
「その後? 私なんかしちゃった?」
「あ、いや。なら、いあや」
「なんでわざわざそんな事確認してんの? ヒロ、ひょっとして私が酔ってるからって変な事してないでしょうね!」

 は? 変な事してきたのはお前だろうが。まあ、僕も悪いと思うけど……。

「な、何言ってんだよ。そんな訳ねえだろうが」

 京香は何も覚えていない。ちょっと寂しい気はしたけれど、このまま思い出さないほうがいいのかもしれない。

 ――僕だけの秘密。

 それでいい。この思い出は一生僕だけの秘密にしよう。僕はそう決めた。