恋になる、その前に

主任のことだから、仕事の時と同じように理不尽なことは許せないといった体(てい)で、冷ややかな反論の言葉を返すことを期待して、俺は耳をそばだてた。

だが、付き合っていた男から酷い言葉を浴びせかけられているあいだ中、彼女は無言だった。

横田の一方的な会話が終わって、ようやく沈黙が生まれる。

重苦しさを破ったのは『……お疲れ様でした』という、涼しいひと言だった。

横田もさすがに気まずくなったのだろう。呻くような返事とともに『ガガガンッ』と鉄のドアを叩きつける大きな音がした。


彼女の大きな溜め息が夜の空気と混じり合うのを聞いて、俺もいつの間にか入っていた体の力を抜いた。

妙に疲れた気分で、もう一本、と煙草に手をかける。

こんな時でさえ全く取り乱さない姿は“広報課の鋼の女”なんて異名をとるだけあってロボット並みの感情コントロールだと感心はするものの、どこか嘘くさい気がした。

手のなかのライターを揺らして考える。

……今、ギャラリーがいたことに気付いたら、彼女はどう動くだろう?

何事もなかったかのように立ち去るのか。

気まずい場面を目撃されたとしても、いつものような冷静さで相手を確かめるんだろうか。

彼女がどんな顔をするのか見たいなんて、薄暗い興味が頭の中でムクムクと育っていく。

迷ったのは、ほんの一瞬だった。

誘惑に負けて自分の存在を知らせるように煙草に火を灯す。