巫部凛と漆黒のパラドックス

「ほら! ウジウジ考えてないでさっさと座りなさい! もう、何回も言わせないの」
 これまたどこから取り出したか分からない差棒を俺につきつけるのだが、何で俺がこんな痛い奴の言うことを聞かなけりゃならないんだ。本気もんのアホの子だなこいつは。
 俺の同情なんて、甚だ感づいていない巫部は肩越しに俺の後に視線を向け、
「そんな訳でいい? 夕凪さん」
「はい、いいですよ」
 まるで麻衣がここにいるかのように話しかけるが、何言ってんだ? 咄嗟に振り向くと、麻衣がにこやかな笑顔で立っていた。って、何で麻衣がここにいるんだよ!
「もう、急に教室を飛び出して行くんだもん、ビックリしちゃったよ」
 いつものおっとりした表情で言葉を発する麻衣なのだが、何故この子はこの状況を受入れているのだろうか。
「これで役者は揃ったわね。じゃあ、早速授業を開始するわ」
 教壇に立つ巫部と律儀に机についている俺と麻衣という言う摩訶不思議な構図なのだが、何故俺たちはこんな先生と生徒ごっこに付き合わされているのだろうか。その答えは簡単だ。ここで断ろうものなら永久磁石並みのしぶとさでこいつは俺たちに付きまとう事相違ない。ならばここで少しでもそのリスクを回避しなければならないと考えるのはおかしな事じゃないだろ?
そんな憤怒、落胆、呆然、その他全ての感覚を通り越してほぼ無の境地にたどり着いた俺に向かい、こちらは対照的に絶対的なやる気満々な様子の巫部は勢い良く黒板にこんな文字を書き始めた。
「Meny Worlds Interpretation」
どうでもいいが、筆圧が強すぎでチョークが折れまくってるぞ。 
「あんたは、エヴァレットの多世界解釈という現象を知ってる?」
 振り向いた巫部は俺に対し差棒をビシっと突きつける。
「多世界解釈?」
「まあ、あんたのようなアンポンタンには分からないかもね。いい? 多世界解釈とは、世界は可能性の数だけ平行して存在し、それが次々と枝分かれしていくという考え方よ。もし電子がどこかで発見される可能性の波であったのなら、その可能性の分だけそれぞれの世界がある。つまり、ある地点における電子の観測者と別地点の電子観測者は、別々の世界で別々の電子を観測する人になるという事なのよ」
「ちょっと待て」
「なによ」
「言っている意味がわからんのだが」
「はあ? こんなのは量子力学の基礎中の基礎でしょ。なんでわからないのよ。これだから最近の若者は学力低下が懸念されてるのよ」
 心底落胆したかのように肩を落としているが、お前は俺と同じ学年の若者じゃないのか。それに量子力学だって? 言葉のイメージでそこはかとなく物理ちっくな話だし俺にとっては高等すぎて異世界の呪文のようにしか聞こえないぜ。
「それじゃ、シュレディンガーの猫はどう?」
こんどは猫の話か、猫がどうしたって。
「かいつまんで説明するわね。例えば、蓋のある容器に生きた猫と、放射性物質のラジウムを一定量、ガイガーカウンター、アルファ粒子検知器付きの青酸ガス発生装置を入れたとする。もし箱の中にあるラジウムがアルファ粒子を出すとこれを検出器が感知して青酸ガスの発生装置が作動し、猫は死ぬわよね。しかし、アルファ粒子が出なければ検出器は作動しないので猫は生き残る」
 訳がわからんし、それは動物虐待って言うんじゃないのか?
「確率の話よ。ここで、アルファ粒子が出る確率が五十パーセントだとしたら、一時間後に猫はどうなってると思う?」
「そりゃあ、毒ガスが発生して死んでるんじゃないのか」
「馬鹿ねえ、そんなの蓋を開けて見るまではわからないじゃないの」
「おいおい、揚げ足を取るなよ、なんだそりゃ、とんちか?」
「違うわよ、確率の問題なのよ。つまり、蓋を開けるまで、猫が生きているという状態と死んでいるという状態が一対一で重なっていてその二つの世界が平行に存在しているという訳」
「そりゃそうだろうな。蓋を開ければ解決するんだもんな」
 もっともだと思うだろ? 確かに猫の生死はわからない。だが、蓋を開ければたちまち解決じゃないのか。俺がよほど小難しい顔をしていたのだろう、巫部は研究成果を学会で発表している学者のように、
「問題はそこよ。通常、蓋を開ければ猫の生死がわかり、世界はどちらか一方に収束する。でも、収束しなかったらどうなると思う? 猫が生きている世界と死んでいる世界が同時に存在してしまったとしたら? 二つの世界があることになるわよね」
 まあ、そうだろうな。確率の話っぽいし、二パターンの世界があってもおかしくないだろう。ただ、俺たちの存在している時間軸は一つだ。いくら二パターンの世界があろうが、確実に存在できるのは一つの世界のみな訳で、猫が生きている世界と死んでいる世界のうち、観測された世界が正となり、もう一つの仮定世界は棄却される。即ちそれは俺たちが呼吸をするのと同じくらい、当然のことだろう。だが、巫部は、
「私はそのもう一つの世界を探したいのよ。それはきっとこの世界のどこかに存在しているわ。探し出し、その世界へ行くことが私の夢なの」
 恥ずかしさをおくびにもださず堂々と言い切りやがった。ここまではっきり言われると逆に清々しささえ感じちまうだろうが。