巫部凛と漆黒のパラドックス

「巫部……」
 背後に立ち、名前を告げると少女はゆっくりとこちらに振り返る。その顔は、今までに見たことも無いような表情で、悲しさの中の微笑みといった表情であった。
 巫部の前に立つが俺は言葉が出ない。俺にとって巫部はどんな存在だったのだろうか。いきなり入学式の朝に俺と麻衣を訳のわからん事に巻き込みやがるし、おまけに、勝手に俺と麻衣を生徒会に巻き込んだ。いつもマシンガントークを炸裂させ、俺は今までこいつの笑顔かニヤケ顔しか見てこなかった。人の意見なんてお構いなしで、正にキングオブ自己中じゃないか。
 
 俺はうんざりしていた。早くこいつから逃れたいと。
 
 だがな。ここで俺は認めなくてはいけない。入学してから昨日までの生活は、俺にとって今までに経験したことのない楽しいできごとだった。
 
 ちくしょう、俺は巫部と出会い、麻衣やゆきね、天笠と過ごしたハチャメチャな高校生活が楽しかったと本気で思っちまってるじゃねえか。できるものなら戻りたい。あの生徒会室へ。
 
 それなのに、昨日から俺が見ていたのは巫部の悲しそうな表情だけだ。そう、あの時公園で一人遊んでいた少女のように。一人で全て抱え込んでいるような表情だけだった。
 当時の俺はその子の笑顔が見たくて声をかけた。せっかく公園で遊んでいるのに全然楽しそうにしていなかったから、遊ぶ時は笑うもんだ、と。だが俺は今、再び巫部に同じ顔をさせている。しかも、今回は俺が事故に遭い死んだかもしれないと思っているからだ。こんな辛い思いはさせたくない。こいつはいつも笑顔で俺たちをからかっている方がこいつらしい。いや、そうしていなければならない。世界が無くなる危機だろうが、闇の世界が拡大しようが、どうでもよくなった。俺はこいつの不安要素を取り除かなければならない。世界の事について考えるのはその後だ。
「ねえ……」
 感情を押し殺しているかのような巫部の声。
「なんだ」
「この世界のどこにその子がいると思う? やっぱりあの公園かな」
「ここには居ないだろ、闇だらけの不思議な世界だからな。居るとしたら元の世界じゃないか」
「元の世界……って、そこにあの子はいないのよ?」
「やっぱり、その子が死んだと思っているのか」
「そうね。生きているって話は聞かなかったし、それっきりあの子に会えなくなっちゃったからね。きっとあの子はその時私を庇って死んでしまったのよ」
「麻衣も言ってたがそれを確認したのか? 新聞とかニュースで見たのか?」
「ううん、見てないわ。だけど、あれだけたくさん血が出てて、動かなくなっちゃったのよ。大人がみんな隠しているだけできっと……」
「自分が見てないならまだ生きている可能性もあるだろうに」
「ないのよ! そんなこと!」
 突然巫部は叫ぶように大声を張り上げ、その場にしゃがみこんでしまった。まるで巫部以外の人間が発する全ての言葉を拒否するかのように。
「私が……私があの子を殺したの! 私が道路に飛び出さなければ、あの子が私を庇って撥ねられる事もなかった。私が……私が……大切な妹の次はあの子だなんて……」
 呼吸が荒くなり嗚咽を漏らす巫部。頭を抱えながら叫ぶその姿は何かに追い詰められているようだった。
「私が……私が……あの子を……」
 動揺を通り越しパニック状態に陥っている。俺はこういう場合に合理的な落ち着かせる方法を持ち合わせていなかった。だから、思いのままの行動をとる。
 俺は涙で顔をぐちゃぐちゃにした巫部を優しく起こすと抱きしめていた。こんな安易な行動で巫部の不安要素を取り除けるかは疑問だが、今の俺にはこうしてやることしかできない。こいつが抱えてきた責任と不安を消し去るように強く抱きしめてやることしか。
 抱きしめながら俺は巫部が落ち着くのを待った。例え何時間かかろうとも、俺はこいつに付き合わなければならない。今、巫部は十年分背負った責任と向き合っている。それは、本人には言えないが、俺が受け止めてあげなければならない事だからだ。しばらくの間巫部は俺の胸の中で顔を擦りつけながら泣いていた。
 どのくらい時間が経っただろうか。呼吸が落ちついてきた頃合で、巫部の肩を掴みその顔を見つめた。涙で濡れた顔、充血した眼、今目の前にいるのは心の弱い一人の少女で、今にも心が壊れそうだった。俺がその心に刻まれた責任を開放してやらなければ。
「なあ、巫部」
「なによ」
 少し拗ねたように俺を見つめる。
「その子はきっと生きている。多分、事故に遭った時別の病院に運ばれたんだろ。それでちょっと重傷でだったその子は、暫く入院して、他の町に引越していったんだ」
「何で引越ししちゃったの?」
 巫部の素直な反応。
「元々そういう予定だったんだ。だから、その子はお前にお別れを言うはずだったんだ。それがあんな事故に遭っちゃって、結局言えずじまいだったんだ」
「なんであんたがそんな事知ってるのよ」
「なんとなくだ。多分そうじゃないかなって思っただけだよ。それに、その子だって、もし死んでしまったとしても、友達を庇ったんだぞ、誇らしい気持ちになるる事はあっても絶対恨んだりはしないだろ。お前のそんな顔なんて見たくはないはずだ」
 悟られないように、俺は最高の笑顔を向けた。
「なによ。知りもしないくせに適当な事言わないでよ」
「それもそうだな」
「でもね」
 巫部は再び俺の胸に顔を埋め、背中に手を回した。
「なんでだろう、あんたが言うと妙に説得力があるのよね。妹はもういないけど、なんとなく、あの子が元の世界にいるような気がしてきたわ」
「ああ、多分いる。だからもう一つの世界じゃなくて、元の、俺たちの世界で見つければいいじゃないか」
「そうね……そうしてみるわ」
 巫部が俺の背中に回した手に力を篭める。俺もそれに答えようと巫部の小さな体を思いっきり抱きしめた。闇が支配する誰もいない屋上で、巫部の小さな体が発する心臓の鼓動だけが、確かに俺に響いていた。
「まったく、生意気なんだから」
 相変わらず俺の胸に顔を埋めながら、悪態を付く巫部。
「いつもの調子が戻ってきたじゃないか」
「フンだ」
 拗ねたようにそう言うと、巫部は体を起こした。今まで抱き締めあっていた状態から体を起こすって事は目と鼻の先に巫部の顔があり、必然と見詰め合う状態になったしまうって訳で、巫部の大きめの瞳を見つめる事しかできないでいると、
「蘭……」
 そう言うと同時に巫部が瞳を閉じたじゃないか。ちょっと待て、これはどういう事だ?この状態ってもしかして、マジでキスする五秒前、略してMK五って感じなのか? 落ち着け俺、良く考えるんだ。相手は巫部だぞ、俺をおちょくっているという線も考えられる。顔を近づけた瞬間、切れ味鋭いボディーが炸裂するとか? いや待て違うぞ。今の巫部は瞳を閉じ、朱に染めた顔を少し上げ気味にしている。これはやはりそういう事なのか? だが、この状況を考慮するにマジっぽいぞ。これはもう状況的に行くしかない!