「今度の異動で本社にもどるから、そろそろ、どうだろう」


「そろそろって……」



彼の言いたいことはわかっていたけれど、あえて聞きなおしたのは私の意地だった。

察してほしい……そんな雰囲気が彼から出ている、でも、そんなのはイヤ。

はっきりと言葉にして欲しい、だから、ここはじっと我慢だ。



「お袋も彼女を連れて来いってうるさいし、そっちにも挨拶に行けって」


「いいたいこと、わからないんだけど」


「本社に戻ったら当分動かない。だから……そのほうがいいと思って」


「わけわかんない。もういい」



食べかけのガトーショコラに未練を残しながら、テーブルをバンッと叩いて立ち上がり、コートとバッグを掴んで店を出た。

「おい、待てよ」 と大声で怒鳴りながら森本さんが追いかけてくる。

怒鳴らないでよ、みんな見てるじゃない。

声を振り切るように必死で走ったのに、彼のコンパスにはかなわない。 

ほどなく腕をつかまれた。



「待てって言ってるだろう」 



行きかう人の目を気にしたのか小声だったが、問いただす声には怒りが滲んでいた。



「いきなり帰るって、どういうつもりだよ」


「怒らないでよ。どうして私が怒られなきゃいけないの? 私が悪いの?」


「悪いとかじゃなくて、話の途中で立ったから……」



彼の声が威勢を失って、言葉は先細りになっていった。

いくら不器用でも、一生で一番大事なこともちゃんと言えないなんて、こんな情けない男と付き合ってきたのか、私は。

はぁ、どうしてこんな人を好きになっちゃったんだろう。

けれど、私に責められても言い返す言葉が見つからず、うなだれる彼を見ていたらだんだん可哀想になってきた。

いからせていた肩をさげて、息をはいた。 



「わかっていても、言葉にして欲しいのよ……」


「俺たちは言わなくてもわかる、そんな関係じゃないのか」


「そうかもしれないけど……うぅん、そうじゃない。

言わなくちゃいけないことって、あるでしょう? それも言えないの?」


「うーん……」



これだけ言ってもまだわからないのか。

言い返す気にもなれず、口をギュッと閉じてそっぽを向いた。



「こっちを向いてくれ……ちか、千花」



千花と、確かに聞こえた……こんなの初めてだ。

彼が私の名前を呼ぶのはベッドの中だけ。

ささやくように耳元で私を呼ぶ彼の声は、ビターなチョコレートと同じ。

ほろ苦いけれど、ほどよく口どけするチョコのように、繰り返し 「千花」 と呼びかけ、甘い快感で体がとろけそうな気分にさせてくれる。

彼が名前を呼ぶのは、誰にも邪魔されない親密な時間を過ごすときだけ。

私はいつでも呼んでほしいのに、照れくさいのか、それとも彼のこだわりかわからないけれど、期待しても無駄だと諦めていた。 

ところが、外で初めて名前を呼ばれて、戸惑いと嬉しさで体が思うように動かない。

もう一度 「千花」 と声がしてゆっくり振り向くと、彼に手を取られ、道の端に連れていかれた。



「千花のお父さんに挨拶したい……けじめだから」


「けじめ……」


「うん、千花を育ててくれたお父さんに、きちんと挨拶しておかなきゃ、俺、先に進めないよ」



彼らしい言い方だった。

仕方ない、ここは妥協して私が引き下がるか。

そう決めて、わかった、と返事をした。

翌週うちにやってきた森本さんは、緊張しながらも堂々と挨拶を述べ、結婚を申し込み、父の許しを得ると、父と飲めない酒を酌み交わした。


少しの酒で顔を真っ赤にしながら 「千花さんを大事にします」  と、本当は私に言って欲しい言葉を、繰り返し父に向かって告げていた。

彼らしいといえば彼らしい。

そのときは、つい、ホロッときたけれど、数日後のメールに私の眉は釣りあがった。



『この前のことだけど、あと2年待ってくれ。そしたらメドがつくから』



メドがつくって、どういう意味?

すぐ彼に電話をしたけれど、応答するのはメッセージセンターの声ばかり。

それから何度も電話して、やっと返事が来たと思ったら、『会ったとき話すから……』 とだけ、なんの説明もない。

そして、悶々としている私に、東さんから森本さんの転勤の情報がもたらされた。

九州に転勤するから、だから2年待てって?

おいてけぼりをくったようで、思い返すたびに怒りと哀しさと、寂しさが満ちてくる。