繋いだ手を離して、きつく抱きしめられた。
私の胸は高鳴り、熱いものがこみ上げた。この腕を離したくない。これは本音だけど、この人を私の物にしてはいけない。

「橘君……」

言葉が出なかった。
橘君は私の目を見つめると、そっと唇を重ねた。
会わなかった理由も、彼なら言わなくても分かっている。私の心を落ち着かせるために、無理に誘ってもこなかったのだろうと思う。

「ごめんね……」

そう言うのが精いっぱいだった。
引越まで考えた自分を恥じた。

「……これから行くお店はね、きっと黒川が、いや、女の人が喜ぶ料理だと思うよ」

橘君は空気を変えようとしたのか、ひと呼吸置いて、話題を変えた。
それも、申し訳なさでいっぱいになる。
私が出来ることは、それにこたえることだ。

「どんなお料理かしら」
「行ってのお楽しみだ」
「そうだね」

歩く速度もゆっくりで、私たちの関係の様だ。
自分たちのペースで、いや、私のペースでゆっくりと縮まる距離。

「モモは風邪なんかひいてない?」
「うん、大丈夫。モモは健康」
「捨て猫で母親とあまり一緒にいなかったはずだけど、丈夫だ。あたりのネコだね」
「健康が人間も猫も一番ね」
「そうだ」

はしゃいだ感じもなければ、話題の会話もない私たち。
ゆったり、まったりという言葉がぴったりだ。
繋いだ手から伝わるのか、ふと彼を見上げると、必ず目があった。
橘君が柔らかに微笑返してくれる。
人に頼ることも、甘えることも知らない私は、かわいげのない女に映っているだろう。
橘君に連れて行ってもらった和食店は、最近評判の店とのことだった。
個室に通され、既に注文をしていたようで、座わって暫くすると、料理が運ばれてきた。

「わあ、かわいい」

料理はお重で三段になっていて、一番上のふたを開けると、前菜と呼ばれるものが盛り付けてあった。

「おままごとみたい」

その言葉がぴったりなお重だった。
橘君が女の人が好きだと言った意味が、分かる。
手毬寿司もあり、見た目も良かったが、味も抜群だった。
食事の最後には、抹茶とデザートが付き、とてもおいしくいただけた。

「おいしかったね」
「良かった、喜んでもらえて」

橘君がこれだけの料理で満腹になるはずがないと思っていたけれど、そうでもないようで、私も嬉しい。
でも、いつもの橘君とはちょっと違い、口数が少ない。何かあったのか、心配になる。
私が会うことを避けていて、元気がなくなってしまったのだろうか。逃げずにいたら橘君を苦しめたりしなくて良かったはずだ。私が悪い。

「橘君、どうかしたの?」
「え?」
「元気がないから」

私がそういうと、橘君は正座をして深呼吸をした。

「黒川、俺と結婚してくれませんか?」
「え!?」
「今言わないと、黒川はきっと俺から離れてしまう。そう考えていたはずだ。だから、もう待たないことにした」

やっぱり彼は私の思っていることを分かっている。

「黒川のことだから、返事今出来ないってわかってる。だけど、逃げないでほしい。ずっと返事を待っているから、逃げないで。それだけは約束してほしい」

まだ付き合い始めたばかりだけど、結婚を考えていたとは思いもしなかった。
引越まで考えていた私は、本当に卑怯だ。男の人がプロポーズをするのに、どれだけ勇気が行ったことか。それくらい私にだってわかる。

「橘君……」
「俺は黒川の手で幸せになりたいんだ。それが出来るのは君だけなんだから」

本当にうれしかった。それは嘘ではない。ただ、自信がないのだ。結婚となると、周りとうまくやっていかなければならない。それが怖い。
店を出るときも、アパートまで送ってもらう時も、いつもと変わらなくてほっとした。
彼は、凄く緊張していたらしく、そのことが気がかりで無口になっていたようだ。
本当の意味で真剣に向き合う時がきた。
誠実な彼に、誠実な答えを出さなければいけない。
それには、超えなくてはならない壁がある。
それに向かう勇気がまだない。
温かな手を離したくないけれど、もしかしたら、そうしなければいけないかもしれない。
答えを出すのが怖かった。