「乗ろうか、冷えてきたから」
「う、うん」

後部座席のドアを閉め、助手席に乗る。
シートはまだ熱さが残っていたけれど、クーラーの冷気が勢いよくあたり、汗が引いていった。
ふと運転席に座った橘君を見ると、額から首筋にかけて汗が滝のように流れていた。
人との付き合いを避けて生きてきた自分は、人の気遣いも出来ないようだ。それも、私を変えてくれた大切な人でさえも。
自分のことしか考えられない、自己中心的な部分が見え、恥ずかしい。
持っていたバッグから、ハンドタオルを取り出して、橘君の汗を抑えた。

「ありがとう」

向けられた顔は、嬉しそうに見えた。
何かするたびに、余計なことじゃないのかと取り越し苦労ばかりしていた。
自分がすることが、その人にとって迷惑なのではないか、何でそんなことをされるのだろうかと思われるのではないかと、考えるばかりで行動に移せず今まで来た。
だけど、橘君にはそうしたこともしていいのだと、向けられた顔で分かる。
車はゆっくりと動き出し、海をあとにする。
まだ海に向かう車は多いけれど、帰る側の道は混んでいない。
夕方になるとすごく混むのだと、運転しながら橘君が話す。
今の私には、何もかもが新鮮に映った。
人の幸せそうな顔は妬ましくもあったが、今は道行く人の笑っている顔でさえも微笑ましく、つい自分も笑顔になる。

「家に車を置いて自転車で黒川のアパートに行くよ。いい? 行って」
「うん、待ってる」
「良かった」

海に近いところに住んでいる私たちは、車に乗っている時間も少なくて済む。
周りの景色が海から中心部の賑やかさに入って行くと、もう離れなくてはいけないのかと寂しくなっていた。
でも、離れたくないなどと、恥ずかしくて口が裂けても言えない。
大きな川の橋が見えた。その橋を渡って曲れば自分のアパートだ。
車に乗っていた時間は20分ほどだったけれど、橘君とは私のアパートに行ってもいいかと尋ねられただけで、それ以外の会話はなかった。
前は何かしゃべった方がいいのか、何を話せばいいのかと会話を探し、重い空気が途轍もなく嫌だった。
今は、隣にいる空間そのものが温かく、心が温まるのが分かる。
モモによって温もりと言うものを与えられていたが、橘君にも与えられていたのだ。
私は、一人と一匹によって人間らしい感情がよみがえったらしい。
あっという間にアパートに着き、車を降りる。
運転席側に回ると、橘君がウインドウを下げた。

「すぐに戻るよ」
「はい」

少し屈んで話をする。
しばしの沈黙があり、何か話があるのだろうかと思っていたけれど、じゃ、と言って車は走り出した。
車を見送ると、私は、急いで階段を駆け上り家に入った。
玄関に迎えに来ていたモモは、ニャーと一泣きすると、足にすり寄ってきた。

「モモ! 大変! 橘君がくるのよ? 片づけなくちゃ」

家を出るときには掃除も洗濯も済ましていたけれど、下着を部屋の中に干してあり、急いで乾き具合をみる。
朝早く洗濯したせいか、下着はすっかり乾いていて、ピンチから取り外して急いで畳む。

「あ、お茶……」

冷蔵庫をあけると、麦茶のポットと炭酸飲料のペットボトルが一本入っていた。
お菓子はいつもある。お菓子が大好きな私は、切らしたことがない。
冷蔵庫には、夏季限定のチョコレートもある。
これで、なんとかなるだろう。
ベッドの布団をポンポンと叩いて、さして広くない部屋を見渡す。
こんなとき、物を置かない生活は楽でいい。

「大丈夫よね」

今から洗っても遅いだろうが、砂がついていた足を風呂場で軽く洗って、汗臭い服を着替えた。
アパートの中はクーラーを利かせていたが、ばたばたとして、少し暑く感じた。
そうこうしていると、家のチャイムが鳴ってインターフォンで応対する。
橘君だった。