もう、二度と帰らない場所。
これからも、この先も。
私には、「許す」という気持ちの場所がない。
身体のどこを探しても見つからないのだ。橘君と付き合うようになって、彼にふさわしい女性にならなくてはと思い、何度も人を許すことが大切だと言い聞かせ、頑張ってみた。だけど、それを考えるだけで、吐き気と震えが襲った。

「ホントかどうか知らないけどさ、仏教とかさ、神様の教えで、「人を許しなさい」なんて説法をするけど、そんなに簡単なことじゃないよ。一秒、一分、一時間、一週間、一か月、一年って長い年月を我慢して、堪えて、耐えて。それが、どれだけの辛いことだったのか、俺にだって想像がつかないよ。だから許さなくてもいいと思う。黒川が、「いい人生だった」と思える最後にするように生きて行けばいいんだ。そこに俺がいつもいる」
「橘君」
「だから、浮いてしまったお金で結婚式をあげよう。そうだ、海外で式を挙げるのはどうだろう。黒川の美しさにみんな見とれるよ。きっとそうだ」

私は、涙があふれて止まらなかった。
橘君は私が、頑張って生きてきたことに対する、神様からの贈り物だ。
私の人生が演目なら、いま、第一幕が幕を閉じた。
重くのしかかって離れなかったものが、すっと消えていくのが分かった。
産まれたのは紛れもなく、あの親からだ。それは消せない。だけど、第二幕の幕が上がる時は、私は一人でそこに立ち前を見ている。
そして、前をみたその先には、橘君を始め、お父さん、お母さん、弟と家族が立っている。それを私は大事に、大切にしていきたい。
物を欲しがらなかった私の最大の物欲は、この家族だ。これが欲しくてたまらなかったのだ。

「茜? 泣いているの?」

写真を見ながら、過去を思い出して泣いていたようだ。
橘君が涙を拭いて、抱きしめてくれた。

「出産を前にすこしナーバスになってるかな」
「橘君が優しすぎるからよ」
「いつまでも橘君だね」
「これがいいって言ったのは自分よ」
「そうだった」

皆が名前で呼ぶから、私は橘君でいいと、呼び方を変えようとしていた私にそう言った。
お義母さんもお義父さんも「お前は変わってる」と言って笑った。
前に進むために大切なことで、私という人間を知って、理解をしてもらわなくてはと、橘君にお願いして、お義母さんと話をする機会を設けてもらった。
初めてお会いしたお義母さんは、橘君に似て、少垂れた目が印象的な、優しい人だった。
私の話を聞く間、ずっと手を握っていた。
初めて母親の手の温もりを知った瞬間だった。
お義母さんは、女の子がとても欲しかったらしく、私の紹介が済むと、すぐドレス選びに取り掛かり、毎日のように会って、たくさん話をして、たくさん洋服やバッグ、靴を買ってもらった。
遠慮と恐縮をする私に、「娘と買い物に行くのが夢だった」と言って、橘君よりも密な時間を過ごした。
インテリアの趣味も似ているようで、ナチュラルなレース遣いの雑貨店を見て回った。