〝トン、トン、トン、トン〟
歯切れのいい包丁の音が部屋に響く。

目を覚ませば毎日聞こえる、心地いい音。この音は、亜樹が朝食をつくっている音だ。

私はこの音が嫌いじゃない。

「うーん」

伸びをしながら、ふと、カレンダーに目をやった。彼がここに来てから、今日で丸二年。早いなって思う。
最初に来た頃は、料理なんて全然できなかったのに、知らないうちに私よりも上達し、今では彼が朝、昼、晩のすべての食事を作ってくれている。

・・・偉いよな、亜樹は。
料理のできるイケメン・・・。きっと、大学でもモテているんだろう。

ぼさぼさの髪を整えて、取り敢えずリビングに向かう。


コンソメのいい匂い。昨日は飲んだから、あっさりした食事が良いな。
こんな贅沢なことを思うことが出来るのも、きっと彼が作っているからだって思う。

「あき~。今日は何?」

扉を開けると、台所で熱そうなスープを丸いお椀に注ぐ彼の姿があった。
・・・あのお椀は。
ついこの間、デザインが可愛いいというだけで、私が買ってしまったお椀。
まさか、早速使われるとは思わなかったけれど、きちんと使ってくれるのが嬉しい。

「今日はスープ」

どんなスープなのか、亜樹は言わない。
そんな彼のシンプルなところが良いと思う。

亜樹が作ってくれたスープを覚めないよう、私はそれを素早く口に運んだ。

「うん! 美味しー!」
野菜とコンソメの上手さと温かさが疲れた体を癒す。

「二日酔いに効くわ。 さすが、我が弟よ。」

「良かった」

彼はふんわりと優しく笑う。けれど、目の奥は笑っていない。何かを隠して笑う彼の顔を、私は何度、見て見ぬフリをしてきただろうか。

彼がこんなに気を使っていくれるのも、全部、私のために色々と考えてくれているからだ。

昔からそうだった。
彼は、純粋に気に入った人の前では一生懸命なのだ。
それはきっと、実の母親が離れた影響が大きいのだということも、私は知っているのだ。


***  ***


ヨレヨレのパジャマから整ったスーツに着替え終わった頃だった。

〝ザ―― カチャ〟

蛇口から出る水の音と食器がぶつかり合う音。
この音は彼が食器を洗う音。
ああ、私の分まできちんと洗ってくれているのだろう。
・・・。

私は慌てて台所に向かった。

「ああ、今日こそは食器を洗うって思ってたのに」

また忘れてしまった。亜樹が来てから、私は家事のすべてを押し付けてしまっている。
ただ、彼が来てくれたおかげで、朝の出勤がスムーズなのが嬉しくて、ついつい甘えているのも事実で。
本音を言うと有り難いし、ラッキーって思うのだ。

「良いよ。これくらい。」
亜樹は少し笑ってそう言った。きっと、彼には私の胸の内が分かっているのだろう。
けれど、それでも、彼は良いと言ってくれる。彼は、優しすぎる。

「これくらいって・・・私が担当なのに」

それに比べて、私は・・・

「それより、時間は大丈夫?」

亜樹が見つめる先の時計は、もうすぐ私の出勤ギリギリ〝デッドタイム〟を指していた。

「あっ! もう行かなきゃ!」


***   ***


〝ドタドタ〟

毎日落ち着いて家を出たことがない。 ・・・特に、亜樹が来てからは。
この間買った新しい黒のヒールをコツコツと言わせながら履き、玄関の扉を開けた時だ。

「忘れ物」

後ろを振り返ると、亜樹が透明のクリアファイルを持って玄関に立っていた。ファイルの中には、今日提出の資料とまったくそっくりの物が入っていた。

・・・嘘ッ!

慌てて鞄を漁ったけれど、入れたと思っていた資料は鞄の中には無かった。

「あ」

恥ずかしい・・・。
赤くなった頬が熱い。

「ありがと」

はあ・・・、今日で何度目だろうか。私はダメな姉だ。

「どういたしまして。」

にやりと笑う亜樹を見て、少し腹が立った。完璧な弟に笑われた。

「行ってきます」
少し機嫌が悪そうに言うと、亜樹は慌てて

「行ってらっしゃい」
そう大きな声で言った。

そんな彼を見て私はつい、笑ってしまった。やっぱり変わらない、彼はやっぱり優しいなと思う。

けれど、この優しさは私だけが独り占めできるものじゃない。むしろ、そんなことを私はしてはいけない。


私たちは歪だけれど、互いに姉弟として接しなければならないのだ。

だからこそ、この好意は弟としてでしかなく、それ以上に進めてはいけない。

私と彼には大きな溝がある。それは、年齢だけじゃなく、絆というものも絡んでくる。
その絆が彼の笑顔を奪っていることも、殺していることも私は知っている。

けれど、二人で幸せになれることはないことも知っている私は、ただ、この生活を満喫することでしか彼を救う道がないと信じるほかないのだ。

「寒ッ」
春が来ているはずなのに、今日もどこか寒い。
そんなことを思いながら、私は駅に向かって歩いていた。