〝トン、トン、トン、トン〟
歯切れのいい包丁の音が部屋に響く。

こうやって、朝早く起きて、朝食をつくるのが僕の日課だ。
もう二年になるだろうか。僕がこうして包丁を握っているなんて、昔の自分は想像できなかっただろう。

「うーん」

少し離れたところから女性の声が聞こえた。同室の女性。
彼女はもうすぐ起きてくる。
ほのかに匂うコンソメの香り。
昨日は飲み会で、きっと疲れているだろう、そう思って野菜スープにしたけれど、彼女の口には合うだろうか。


〝カチャ〟
扉が開くのと同時に、彼女がひょっこりと現れた。

「あき~? 今日は何?」

毎朝、一番最初に彼女から聞くのはこの言葉。僕はこの言葉が好きだ。僕はまだ、彼女の中で生きているって実感できるから。

「今日はスープ」

そう言って僕が山吹色の丸いお椀を差し出すと、待っていましたと言わんばかりに素早く手に取る。匂いを嗅ぐこともなく、あっという間にスプーンを口に運んだ。

「うん! 美味しー! 二日酔いに効くわ。 さすが、我が弟よ。」

「良かった」

喜ぶ君の顔が見れただけ、まだ良いのかもしれない。少し時間をかけた手料理を、あっさり食べる姿を見て、僕はほんの少しだけ不満を抱く。

〝さすが、我が弟よ〟――か。

僕は幸せなはずなのだ。そう僕は偽って口に食べ物を運んだ。
ああ、今日も嬉しそうに食べている。美味しいって喜んでくれた。ただ、それだけで今は満足しているのだ、と。


*** ***


〝ザ―― カチャッ〟
蛇口から出る水の音と食器がぶつかり合う音。

僕はこの音が嫌いじゃない。


「ああ、今日こそは食器を洗うって思ってたのに」
拗ねた声でいう君。本当は大助かりと思って、ほくそ笑んでるくせに。

そこが愛らしいって僕は思う。

「良いよ。これくらい。」

こんな君を知っているのは、食器を洗う僕だけ。

「これくらいって・・・、私が担当なのに。」

だから、僕は率先して君の仕事を奪っている。そんな僕を君は知らない。

「それより、時間は大丈夫?」
僕がちらりと時計を見る仕草をすると、僕を見た彼女も同じように時計を見る。
「あっ! もう行かなきゃ!」


〝ドタドタ〟
玄関まで走る彼女の足音はいつも慌ただしい。そんな彼女を可愛いと思う。

ふと机を見ると、綺麗な透明のクリアファイルが見えた。
 さっき、僕の作ったスープ食べながら見つめていたものだった。
 きっと彼女の忘れ物だろう。
 そんな抜けているところも可愛いと思う僕は、重症なのかもしれない。

「忘れ物」

そう言って僕が玄関に現れると、君は、僕が持っているファイルを見て、慌てて鞄を漁り始める。
その動作が急に止まって、

「あ」
と一言呟くと、少し赤くなった頬を腕で隠しながら、空いたほうの手でファイルに手を伸ばす。

「ありがと」

何度目だろうか、と君は思っているんだろうな。

「どういたしまして。」
とびっきりの笑顔で言う僕に、ちょっと低いあまり可愛くない声で、

「いってきます」
そう言った。少し、怒ったのかもしれない。

「行ってらっしゃい」
僕は君に届くよう、慌てて大きな声で言った。
そんな僕を見たのか、君は閉まるドアの隙間から嬉しそうに笑って行った。
 それを見ると僕が喜ぶって、君は計算しているのかな。ほんの少し、意地悪したなって後悔した自分が一気に吹き飛ぶのを感じる。だから、君に惹かれるのかもしれない。


*** ***


「さてと、行きますか」

 大学へ向かう準備をしながら、こんな毎日が続けばいいのに・・・と思う。
けれど、今の生活が永遠に続くことは決してないということを僕は知っている。
これはただの片思いだって分かっているのに、僕はつい欲が出てしまうのだ。

〝ドッ、ドッ・・・〟
 ゆっくりと玄関に向かいながら、茶色の薄汚い鞄を背負う。
少しボロボロの運動靴を履き、ドアノブに手を置いて、ふと、僕は自分が履いた靴を見た。

彼女の鞄はいつも傷一つなく、履いていく黒のハイヒールも綺麗だったのを思い出す。
彼女はキャリアウーマンで僕はただの学生なのだ。当たり前の差なのだ。
けれど、彼女との差は身も心も大きすぎる、そう感じることも少なくない。

「よし」

 一言呟いてから、僕はドアを開けた。
 春が来ているはずなのに、外の空気はまだ冷たい。
 そんなことを思いながら、僕は重い扉を閉じたのだった。