「だからまずは追跡されないよう俺達の匂いを消すうえに悪魔の苦手な匂いを放つ香を焚いて日の出までやり過ごす。念のため屋敷の外にも焚いておく」
「解った。僕も手伝うよ」
「馬鹿、お前は寝てろ。怪我のせいで発熱もしてるんだから」

 そう言って翡翠は押入れから布団一式を出すと床に敷いて半ば無理やりに神保を寝かせる。

「し、しかしこんな状況を作ってしまった僕がただ寝ているだけというのは……」
「そうだよ。はっきり言ってお前のせいで状況は最悪そのものだ。だから足手まといにこれ以上状況を悪化させられたくないんだよ」

 魔除けの香を焚きながら翡翠ははっきりと辛辣な言葉を浴びせる。
 こう言われると神保はもう何も言えなかった。

「ゆっくり寝てろよ神保。大丈夫、何とかなるさ」

最後に少しだけ優しい声色で呟いて、翡翠は自分の部屋を出て行く。
一人残された神保は天井を眺めながら自分の愚かさに辟易する。
ただ呆然としていても無意味だったので翡翠から言われた通り、少し寝て体力の回復に努める事にした。
ズボンのポケットから携帯を取り出してアラームを30分間だけセットする。
何故撃てなかったのだろう?
両目を閉じ自らに問いかけても答えは出ない。
熱と疲れのせいもあってか神保はそのまま意識を闇に落とす。
一方、部屋を出た翡翠は祖母の部屋の地下蔵に続く隠し階段を駆け下りていた。    
 それは知恵の秘密を探る為、グールの攻略法を再び確認する為にもう一度地下の書物を読む必要があると考えたからだ。

「確か……この棚に直したよな?」

 知恵には誘引の陣が効かなかった。それどころか冷静に状況を見て偽の死体に気付いていたのだ。
自分はまだ何かグールについて知らないことがあるのだろうか。もしくは何か思い違いをしているのではなかろうか。
その疑問を解消する為に地下蔵に着いた翡翠は早速グールに関する情報が書かれた本のページを何度も見返す。
更に知恵の言動、行動、特徴を必死に思い出し本の情報と照らし合わせる。
誘引の陣は完全に効かなかった訳ではない。
陣の放つ匂いは確かに知恵の鼻に届いたからこそ翡翠達の前に現れたのだし、喰らい付きこそしなかったが幻覚自体は確かに悪魔の目に映っていたようだった。

「動きを封じる陣も確かに効いていた。何故幻覚だけは見破られたんだ?」

 知恵に対する翡翠の抱える疑問はこれ以外にもまだあった。
祖母、蔵島翠が過去に戦ったグールは人間の肉を食すと腕が膨れ上がり常識外れの怪力を奮ったらしいが知恵にはそんな変化は現れなかった。
では……知恵の持つ特性とは何だ?
それが解ればグール『人喰い知恵ちゃん』との戦い方、攻略法の糸口を見つけられるかもしれない。
翡翠は頭の中で知恵が人肉を食べた瞬間、神保の肉を飲み込んだ映像を思い出す。
あの時、知恵に何か変化はあったか?

「いや、無かった……そんなものは」

 冷静に状況を思い出しながら翡翠は自問自答する。
 記憶の通りならあの時の知恵に外見的な変化は無かった。
では内面的な変化は?

「そんなもの解るもの……か」

 頭の中に浮かんだ疑問の回答を拒否しようとした口が途中で止まる。適当に流そうとしたその問題が何故かとても重要な事に思えて仕方が無かったのだ。
あの時の知恵のリアクション。

「あいつ、あの時何て言ってたっけ? そう確か……」

 頭の中で再生される知恵の台詞を一字一句間違わずに口に出す。

「ああ聡介さん。あなたの体とても美味しいわ。今まで味わった事のないほどに……」

 小さく呟いた瞬間。翡翠の頭に稲妻が走るような感覚が襲い、先程の戦闘中の出来事が高速で脳内を駆け巡った。
 低級悪魔のグール。
書物に書かれていない変化。
知恵が偽名を使っていたこと。
被害者の男性。
偽者だと見抜かれた幻覚。
そして西園寺知恵の持つ欲の正体。
 頭の中でバラバラな情報が線と線で結ばれていく。
全てがつながった瞬間、翡翠は口の端を釣り上げて笑い、もう一度祖母の残した書物を見直す。

「流石はお婆ちゃんだ。ここに書かれてあることは何も間違っていない」

 本を閉じ、棚に直すと翡翠は元来た階段を再び上がり始めた。

「間違ってたのは……俺の方だったんだな」

階段の往復を終えると翡翠は一度自分の部屋へと戻る。
襖を開けると先程までぶつぶつと五月蝿かった神保が寝息を立てていた。

「睡魔の陣。効果覿面だな」

 穏やかに寝息をたてる神保の顔を見て翡翠が笑う。
 先程押入れから出した布団一式の枕の中には翡翠が常日頃から愛用している熟睡効果のあるまじない陣が画かれた紙が入れられていたのだ。
翡翠は相方を起こさぬよう足音を消しながら部屋に入り、布団の横に雑に置かれてある自分の画材の入ったバッグと右腕部分の生地が齧りとられ神保の血が染みているスーツの上着を摘み上げる。

「悪いな神保。お前の服借りてくぞ」

上着を腕に抱えた時、翡翠は今までスーツの下に隠れていた銀銃を収めたホルスターを見つけた。

「行ってくるよお婆ちゃん……この馬鹿を、俺の友達を守ってあげてね」

 誰にも聞こえないほど小さな声で銀銃に囁いた翡翠は静かに自室を出ると最後に台所に寄って刃がケースに収まった果物ナイフを腰に差して準備を終える。
玄関で靴を履き、門から外に出る。
石階段は下りずに屋敷を囲う外壁をぐるりと回って裏庭の森の中へと入って行く。
しばらく森の中を歩き、適当なところで足を止めてバッグからパレットと筆を取り出すと鬱葱と並び立つ木々に黄色の絵の具で誘引の陣を書いていく。
翡翠はここでもう一度知恵と戦うことを決意していた。
これ以上神保を危険な目に遭わせたくないと考えての行動をとった翡翠は単独での戦闘を心に決めたのだった。
 銀銃は翡翠には撃てないので持って来てはいなかったが、それでも勝算はある為か不思議と翡翠は自身も意外なほど落ち着いている。

「来るなら来い……今度は負けねぇ」

 頭の中で思いついた知恵の攻略法を何度も反芻する。
今回の作戦には銀銃など必要なかった。
上手くいけば知恵は勝手に自滅していくからだ。
 暗い森の闇の中、翡翠はじっと知恵を待った。