知恵を倒した3日後、神保は再び蔵島の屋敷前まで来ていた。
長い石階段を上る途中、神保は振り返って時葉町を見下ろす。
この街では今も警察が全力で武下紀夫を惨殺した犯人を必死に探し回っている。その犯人が先日灰になっているとも知らずに。
人々は今も姿の見えない殺人鬼の影に怯え続けている。
これでこの街にも平和が戻ったのだろうか。
神保はいまいち実感が持てなかったが、きっとこれから出るはずだった被害を未然に防ぐ事が出来たのだろうと自分に言い聞かせ、再び階段を上り始めた。

「ひ~す~い~く~ん! き~た~よ~!」

 石階段を上り終え、いつもの調子で門を叩く。

「ひ~す――」
「やっかましい! お前はいつもいつも」

するといつもの調子で翡翠が門を開いてくれた。

「全くお前はアポを取るってことを知らねーの……か」

 神保の顔を見た翡翠は驚いて語気を緩める。

「お前、その顔どうした?」

 翡翠が驚くのも無理は無かった。
 神保の右頬は真っ赤に晴れ上がり、顔の形が少し変形していたのだ。

「武下紀夫の恋人にやられてな……」
「武下紀夫って確か……グールの被害者だった」

 神保は黙って頷く。

「その恋人にやられたって、一体お前何したんだよ?」
「その前に落ち着いて話したいから君の家に入れてくれないか」
「嫌だ」

 即答した翡翠は門を通すまいと大の字になる。

「お邪魔します」

構わず翡翠の体ごと押して入る神保。
翡翠も必死に抵抗するが圧倒的な筋力差の前に無残に敗れ去った。
結局そのまま翡翠の部屋まで案内された神保は畳の上で行儀よく正座する。
部屋の中は相変わらずキャンバスと画材しかなく生活感が全く感じられなかった。

「そんで、その顔どうしたんだよ」
「今朝、武下紀夫の恋人に『犯人はもう現れませんから安心してください』って言ったら全力で引っぱたかれた」
「あー……まぁそれは殴られるわ」

 神保の事情説明に翡翠は半ば呆れながら頭を掻いた。
当然だが自分達が先日に都市伝説の人喰いチエちゃんと戦って勝利した事など世間は知る由も無い。
そんな中で被害者の恋人に向かって世間的に犯人はまだ捕まっていないけれどきっと犯人はもう現れないなどとほざいたところで刑事としての捜査放棄としか受け取れないだろう。

「神保。お前殴られるの覚悟でそれ言ったろ?」

 翡翠の問いに、神保はまたしても黙ったまま頷いた。

「馬鹿だなお前。何でわざわざ自分から殴られに行くんだよ」
「人喰いチエちゃんなんて馬鹿げた存在は僕達しか本気で信じることは出来ないし、僕達しか倒したことを知らないだろうけどそれは変える事のできない事実だ」
「だから?」
「せめて、被害者の遺族や関係者にはどんなに馬鹿にされても、どんなに怒られてもいいから真実を伝えるべきだと思ったんだよ」

 自分自身、馬鹿なことを言っているという自覚があるのだろう。神保は視線を畳に向けたまま小さな声で話した。

「それで、被害者の恋人にぶん殴られてお前は満足なのか?」

 想像していたよりも下らない話だったので翡翠は立ち上がり、製作途中だった新作の絵に色を足しながら適当に尋ねる。

「満足とかじゃないけど。嘘をつくよりは真実を伝えて殴られたほうがずっと良いとは思っているよ」
「そうか。だったら何の問題もないだろ」

 神保の抱える葛藤にはまるで興味がないのか淡々と返事をする翡翠。

「そう……なんだけど。何だろうな、メリーさんを倒した時よりもなんだか今回は少し気持ちがもやもやするんだよ」

 その一言に、翡翠はキャンバスに走らせていた筆を止め神保の方へと体を向ける。

「当たり前だろ。メリーさんの時と違って今回は被害者が出てるんだ。どんなに頑張ったところですっきりとした終わり方なんて出来るわけが無い」

 3ヶ月前にメリーさんと戦った後、意識不明だった3人の少女達は病院で目を覚まして今も遠藤佳代子と一緒に学校生活を送っている。
まさにこれ以上無い形で事件を終えることが出来たのだ。
しかし、今回は違う。
人知れず事件の犯人を倒しても犠牲者は返って来ず、何も知らない関係者も悲しんだままなのだ。
それが神保の心に後味の悪いものを残していた。

「いいか神保。今回の件はお前が勝手に正義の味方を気取って戦ったんだ。誰に強制されたわけでもなく自分の意思で決めて行動した結果がこれなんだよ」
「解っているよ。わかっているんだけど――」

 未だに思い悩む神保を前に翡翠は大きくため息をつく。

「なぁ神保……ただ、まぁその何だ……」

 翡翠はこういった落ち込んでいる人に慰めの言葉を送ったりするのが苦手だった。
それでも神保のため、顔を赤面させながら必死に言葉を捻り出す。

「お前が今回動かなきゃ、もっと沢山の被害が出てたかもしれない。成果は目に見えなくとも、お前が頑張ったことは……その、無駄じゃないと思うぜ」
「翡翠……」

 言い終わって恥ずかしくなったのか翡翠は再びキャンバスに向きなおす。

「俺のお祖母ちゃんはさ、そういう辛い事や苦しかった事を忘れない為に自分の経験を書物に残したのかもな」

 白の絵の具を走らせながら言われた台詞に神保は思わず考え込む。
最強と歌われた蔵島翠も過去にこんな経験をしているのだろうか?
この得もいえぬやるせなさを感じたことがあったのだろうか。

「よし、完成だ!!」

 そんな事を考えているうちに翡翠は新しい絵を一枚書き上げてしまった。
神保は立ち上がって出来上がったばかりの怪画を覗き込む。

「どうだ。自信作だぞ」

 キャンバスには白いワンピースをきた黒髪の女性が描かれていた。
荒野に置かれた豪華なテーブルに座り、たった一人で豪勢な料理を食べている女性は見ている者に哀愁の念を抱かせた。

「この絵のモデルって……」
「もちろん。グールの知恵だよ」

 自分の絵の出来に満足そうに何度も頷く翡翠。

「神保。この絵をお前にやるよ」
「えっ!?」

 突然のプレゼントに驚く神保。

「俺は絵に描いたことは絶対に忘れない。今回の事件のことはずっと俺の心に残り続けるんだ」
「あ、ああ……」
「だから、今回お前が誰より頑張った事を俺だけは忘れない」

 その一言を聞いた瞬間、今まで心の中に巣くっていたもやもやが一気に晴れたような気がして、神保は少し泣きそうになる。

「翡翠……ありがとう」
「有名作家の新作だ。家宝にしろよ」

 冗談ぽく笑う翡翠につられて神保もようやく笑顔を取り戻す。
誰か一人でも自分を認めてくれる。
見ていてくれる人がいる。
それだけで神保聡介はまた頑張れるような気がした。
また戦えるような気がした。

「そういえばこの絵のタイトルは何て言うんだ?」

 神保が尋ねると翡翠は腕を胸の前で組んで答える。

「全てを知り、全てを失う女」

 絵の中の女性は笑顔でテーブルの上に並ぶ料理を食べていた。
たった一人、食事を終えれば何も残らない虚しい世界で。