「まさかこれで終わりなの? 悪いけどこんなの全然効かないわよ」

 余裕の無さそうな翡翠をからかうように知恵が笑う。
事実、刃物で傷つける程度ではグールにダメージを与える事はできない。それは翡翠も承知している。

「手首を切ろうと、心臓にナイフを突き刺そうと私は殺せないわ。さぁ次はどうするのかしら?」

 体を縛られたまま知恵が強気にまくし立てる。

「首の頚動脈を切ってみる? それとも目を貫いてみる? それとも喉を掻っ捌いてみるのかしら。ほらほら急がないと拘束の術が解け――」
「次は……こうすんのさ!」

 台詞に割り込ませるかのように翡翠は知恵の大きく開かれた口の中にナイフの刃を入れ込む。
突き刺したのではない。あくまで血の付いた赤い刃を知恵のよく回る舌の上にそっと置いたのだ。
予想外の行動に知恵は何も言えずただその場に立ち尽くした。

「最初から気になってたことがあるんだ」

ナイフを傾け、刃に付いた血が知恵の喉を通っていく。

「なぜお前が神保の下の名前を知っているのかってな」

知恵の口から刃を引き抜いた翡翠は持っていたナイフを投げ捨てた。
最初に2人が知恵と相対した時、翡翠は一言も神保の下の名前を呼んでいない。
それにも関わらず知恵は神保のことを『聡介さん』と呼び続けたのを翡翠は不審に思っていた。

「あ……ああ……」

 自分の血を飲み込んだ知恵の様子が徐々におかしくなっていく。

「死体喰いのグールの中には稀に特殊な変異を遂げる者がいるらしい。過去に俺の祖母が会ったのは通常のグールよりも更に力を増す事のできるタイプだったがお前は違うな」

 翡翠は目の前で段々と余裕を失っていく知恵の様子を見ながら自分が頭の中で立てた推測が正しかった事を確信する。

「お前は『知りたい』と思った人物を体内に取り込むことで、相手の情報を得る事ができるいわば知識欲のグールだったんだ」
「違う……私はただ……愛した人と一つになる為に……」
「お祖母ちゃんが過去にあったグールは怪力を出す為に尋常じゃない量の食事をとらねばならなかったらしい。お前にも能力を発現する為に何かの代償行為が必要なはずだ」

 もっと早くに気付くべきだった。
必要の無いと思われた知恵の行動が知恵を倒す為の最大のヒントであったことに。

「何故お前は偽名を使っているんだ? 人間を辞めたグールに偽名が必要だとは思えないが」
「はぁっ……はぁっ……!」

 翡翠の指摘に知恵の呼吸が乱れていく。

「しかも偽名である事を自らばらした」

 不可解な行動の意味を翡翠は深く考え、解き明かした。
それは最初に偽名だと自ら名乗る事によって、自分が秘密主義である、自分に関する一切の質問は無意味であるという事を密かに印象付けるためのものだったのだ。
そうする事で、知恵は相手からの自分に対する質問を避けてきたのだ。

「お前は自分で自分の血を飲んだ。そして今、お前が最も『知りたい』と思う事を俺が訊いてやろう」
「やめて……お願い……」

 まるで懇願するかのよう知恵は言ったが翡翠は聞き入れなかった。

「西園寺知恵。お前の本当の名前は何だ?」
「うわぁあああああああああああああああっ!!」
   
 青の陣が効力を失い、捕縛が解かれる。
 森の中に響き渡る絶叫とともに知恵は開いた大口で喰らい付く。
翡翠ではなく、自分自身の腕に。
自分自身の事を知りたくない者など、この世にはいない。それはグールに身を落とした知恵でさえ例外ではないのだ。

「何故お前に偽名が必要なのか。それはお前が他人の情報を得る代償に自分自身の記憶を失くしたからだ。違うか?」

 特殊な変異を遂げたグールがその能力を行使するのには代償行為が必要だ。
今までの言動から知恵の場合は自らの記憶を失くしていくことでは無いかと翡翠は予想をしていた。
 質問に答えることなく知恵は左腕の肉を食いちぎり、口の中で何度も噛み締めて飲み込む。
何も言わずともその行動は翡翠の考えが当たっていることを証明していた。

「私の……本当の名前……」

 自分の肉体を喰らい、自分自身の情報を得た知恵が自分の本当の名前を思い出す。そして思い出すと同時に新たな疑問が頭の中で溢れ出す。
本当の自分はどんな人間だったのだろうか?
恋人はいたのだろうか?
何故自分はグールになってしまったのだろうか?
一つずつ疑問を解消していく為に右手でわき腹の肉を毟り取り、口に頬張って飲み込む知恵。

「そうだ……私は小さな町工場を経営する両親の元で生まれた3人姉妹の次女。家庭は決して裕福ではなかったけれど――」

 ぶつぶつと自分の情報を一つ一つ思い出してはまた違う体の部位を千切りとって口へと運ぶ知恵の姿は凄愴なものだった。

「高校の卒業式。2人だけの静かな教室の中で私は生まれて始めて好きな人に告白をしたわ……それは私の担任の先生で凄く素敵な男性だった」

 知恵が自分の高校時代を思い出すまでには体からはかなりの肉が削げ落ち、それは最早人間と呼べる形ではなく、もうすぐ自身では歩けなくなる程の変貌を遂げていく。
翡翠は自分の目の前でグールが少しずつ自滅していく様子を冷たい眼差しで見続ける。

「先生は私をふった時に言ったわ。相手の事を何も知らない子供が軽々しく好きなどという言葉を口にして大人をからかうものではないと」

 話を聞く限りではどうやら知恵の初恋は失敗に終わっていたようだった。
今まで体の部位を千切っていた右腕に知恵が口を付け、また肉を食い千切る。

「私はショックだった。先生はどうしたら自分を愛してくれるのだろうと必死に頭を働かせ、そして……気付いたの」

 翡翠は次に知恵が何と言うのかがなんとなく想像できてしまった。

「相手の全てを知れば私はもう子供扱いをされない。先生にだって愛してもらえると思ってその日から私は先生の生活を〝観察〟するようになった」

 知恵の言っている観察とは有り体に言ってストーキングの事なのだろうと翡翠は大きく嘆息する。

「観察を続ければ続けるほど私は先生に詳しくなった。家に忍び込み、台所の残飯から味の好みまでばっちり把握した。けれど、ある日、解らない疑問が出てきた」

恐らくその疑問こそが知恵をグールに変貌させるまでに至った原因だ。

「ある日、先生が知らない女の人を自分の家にあげていたの。2人はとても幸せそうに食事をし、一緒のベッドで寝ていたわ」

 延々と自分語りを続ける知恵の両目から涙が溢れ、頬を伝って地面に落ちていく。

「なぜ先生はその女と一緒にいるの? 私よりも先生に詳しい女なんてこの世にいないはずなのにどうして先生はその人を愛したのかいくら考えても答えは解らなかった……」
「ストーカーが選ばれる訳がないだろ……」

 小声で翡翠が呟く。

「だから答えを知る為に、先生と一つになろうと思ったのよ。一つになれば先生が何を考えているのか解るし、肉の味も解って一石二鳥の名案だと思ったわ」

 今までの話も大分狂っている部分が多かったが、その発言のあまりの異常性に翡翠は背筋を凍らせる。

「自宅に一人でいるのを確認した私は家に忍び込んで先生を殺した後、風呂場まで持ってきた死体の肉を思う存分喰らった」
「狂ってる! お前は狂ってるぞっ!!」

 あまりに身勝手な言い分で人を殺した知恵を翡翠が激しく批難するも、知恵には何も聞こえていないようだった。

「不思議な感覚だった。先生の肉を一口食べるたびに先生の考えや思い出が私の脳裏に映し出されていくのに、私の映像が一つも出てこないの」

 木々の隙間から写る月を見上げながら、知恵は悲痛な声を漏らす。

「それから色々な男を愛し、食べてきたけれど誰一人として私を見てくれている男性はいなかったわ!! 私はこんなに愛してあげているのにどうして誰も私を愛そうとしてくれないの?」

 悲しげに俯き、答えを求めるように知恵は視線を翡翠の方へと向けた。
白いワンピースは血で真っ赤に染め上がり、ただ立っているだけの足も肉を千切られたせいで激しく痙攣している。

「人間だった頃のお前がどんな人物だったかなんて知らないし、興味もないね。一つ言えるのはお前が最初に想っていた人間を殺した時点で、お前に愛を語る資格は無いってことだ」

 救いを求める知恵に翡翠は冷たい言葉を浴びせる。
森の中に強い風が吹き、そんな翡翠の髪を激しく揺らした。

「人である事を辞めた奴が人を愛するな! お前の自分勝手な愛情でこれ以上俺の大切な友人を傷つけるな!!」

 三白眼で睨みつけ、感情をむき出しにして翡翠は吼えた。
こんな身勝手な悪魔に自分の友が傷つけられたかと考えると無性に腹が立ったからだ。

「お前の存在そのものが不快だ! 俺の前からいなくなれ!!」

それを聞いた知恵は自分の左腕をむさぼり続けながらもがっくりとうなだれて涙を地面に落とす。
翡翠のグールを自滅させるという作戦は完璧に嵌った。
後は知恵が自分の体を喰らい尽くすのを待つのみという時、翡翠は知恵の妙な雰囲気に気付く。

「ふふっ……あははっ……そうね、私はこのまま自滅して死ぬ」

 先程まで悲しみに暮れていた知恵が突如不気味な笑みを浮かべたのだ。

「でも私の人生最後に愛する2人の男性を食べてから逝きたいわ」
「無理だな。お前はもう自分自身を知りたいという欲に縛られている。今更俺達にターゲットを移すことは出来ねーよ」

 グールの特性は一度食事を始めれば終わるまで人喰いに夢中になるというものだ。
現に知恵は自分の肉を今も喰らい続けている。
この状態で食事のターゲットを移すには、外部の者から翡翠か神保どちらかの肉を食わせてもらう以外ないが、もちろん翡翠は自分の肉を食わせてやるつもりなど毛ほども無かった。
時間が経つにつれ、体がぼろぼろになっていく知恵と指先を少し切った事意外はほぼ無傷の翡翠。
勝敗は誰の目にも明らかであったが知恵の放つ異様な気配な雰囲気は徐々にその禍々しさを増して行く。
言い表せない本能的な恐怖に翡翠の足が無意識に後ずさりをはじめ、相手と距離を取った。

「そう。今の私は私自身しか食べられない……だから!」

 突如、自分の体を食べるのを止めた知恵が翡翠目掛けて駆け出す。  
 翡翠は逃げるよりも先に考えてしまった。
どうしてターゲットが自分に移ってしまったのかを。

「……しまった!」

 あることに気付いた翡翠は視線を落とし自分の着ている服を見ると、先程知恵の手首をナイフで切ったときに浴びたのであろう返り血がわき腹の辺りに数滴付いていた。
つまり今、知恵は翡翠の体を食べようとしているのではなく翡翠の着ている服に付いた自分の血を食べようとしているのである。

「服に付いた私の血液ごとあなたのお腹の肉を毟りとってあげる。食べさせて、人生最後の素敵なディナーをぉおおおおおっ!!」
「くそっ――」

猛スピードで近づいてくる知恵が右手を突き出す。
もともと体力の無い翡翠は知恵から逃げ切る事も、自分の腹に迫る右手を躱す事も出来なかった。

「神保……すまん」

こんな所でこんなにあっけなく自分は死ぬ。
自分の祖母も、たった一人の友人すら守れずに情けない人生を終える。
わき腹に知恵の冷たい手が触れた瞬間、翡翠は死を覚悟した。