「先生」
「……桜井」
「ねえ、先生」
「さくらい、」
「私は、どこにもいかないよ」
ふ、と。先生の手がゆるんだ。
その隙に、私はゆっくりと先生から距離をとる。
「先生、私は、どこにもいかない」
トレーナーを掴んでいた手を離して、そのままゆっくりと、先生の手に触れる。
しっかりと先生を見上げると、濡れた髪は無造作にふかれたせいでボサボサで、いつものしっかりしたスーツ姿の先生なんて想像できないくらい人間らしい。人間らしいなんて言ったら、ヘンかもしれないけれど。
「……桜井」
私が握った震えた先生の手が、ゆっくりと私の手を握り返す。そしてそのまま、先生の頭が、私の肩に落ちてきて。
「……ごめん……」
私はそんな先生に背伸びをして抱き着いた。
だってもう、止められなかった。
何を失っても、この先後悔してもいい。
いま、この瞬間、私は先生に恋をしていて、どうしようもなく、先生のことがいとおしいと思う。その気持ちを、大切にしたいんだ。
抱き着いた私に、先生の体は一回ビクリとはねたけれど、そのあとゆっくりと私の背中に先生の手がまわった。
窓の外でザーザーと雨が降っている。
私の心臓の音も、先生の過去も、全部全部、消えてしまえばいいのにって、そう思った。