カフェを後にすると、写真撮影に余念のない観光客の合間を縫って、広場の端に聳え立つレンガ造りの鐘楼へと足を伸ばした。

古めかしい様相とは裏腹に、エレベーターが設置されているので簡単に昇れる。
見晴台から見下ろすベネチアの街は、私を現実逃避させるのに十分過ぎるほどの美しさだった。

「ユリア、銅像になっちゃうよ?」

しばらく私を放置していたキョウだが、いい加減景色を見るのにも飽きたのか、後ろからぎゅっと抱きついてきて軽やかに耳元で囁いた。

「ならないよ」

その声に、ふっと我に返る。

……私、どうしてここに居るのかしら。
眼窩に広がる運河の街は、アドリア海の真珠と呼ばれるだけあってとても美しい。
皆がうっとりと見下ろしているのもよくわかる。

けれども。
私は観光旅行客ではないのだ。

少なくとも、何ヶ月も前から計画を立てて、ユーロに両替して、少しはイタリア語の勉強をして、スーツケースをつめて、パスポートを持って、飛行機に乗って長々と極東から飛んできた日本人とは違う。



「ジュノは、どうしたの?」

お?!と、キョウが呟いた。

「楽しい時間は、これで終わり?
せめて、この後ろのサン・マルコ寺院とドゥカーレ宮くらいは見ていかない?」

低い声が魅惑的に鼓膜を震わせ、心臓をキュンキュンと鷲掴みしていく。

でも……。

私の脳裏に、薄暗い日本の部屋でうつむいている桧垣の姿が浮かんでしまったからには、もう、現実に戻るほかないだろう。


とても、とっても残念だけど。