五月に入って間もないある日の休み時間。

彼女にごめんなさいとありがとうを伝えられるチャンスがきた。彼女が、僕の席の近くに、筆箱を落としたのだ。

このとき、僕の頭は想像以上のスピードで回転し、心臓の鼓動こどうが勢いを強めた。

――これを拾って、渡して、そしてもし「ありがとう」と言われたら、「こちらこそこの前はありがとう」と言おう。できることなら、謝ろう。

作戦はよかったけど、焦ったのがいけなかったんだろう。

ゴン――。

僕らは、筆箱を同時に拾おうとして、頭をぶつけてしまった。

「いたっ」

声を上げたのは彼女だ。きっと、周りからも間抜けな光景に見えただろう。

またやってしまった。僕はいつもこうやって空回りをする。

すると、彼女が先に、言葉を発した。

「ごめん、大丈夫?」

「うん、大丈夫。こっちこそごめん」

あまり痛くはないけれど、反射的に左手で頭をおさえながら返すと、彼女の目はまっすぐこちらを見ていた。痛かったのか、少し潤んでいるようにも見える。

そして、今度は彼女が動かないことを確認してから筆箱を拾って彼女に渡した。

彼女は僕の目を見ながら小さく会釈をし、

「ありがとう」

と言った。ゆっくりとした口調だった。

『この次が肝心だぞ!言え!』と頭の中の僕が命令する。今度は、素直に従うことができた。

「こ、こちらこそありがとう」

予定していた『この前は』という言葉をつけるのを忘れたし、一カ月近く前のことなので、彼女はなにに対してお礼を言われてるのかわからないじゃないかと思った。突拍子もなさすぎる発言だった。

でも、彼女は、僕の言いたいことを察してくれた。そして、申し訳なさそうに言う。

「ごめんね、この前はおせっかいをやいて。その……それだと、大変だと思って。でも、そんなことなかったね」

やっぱり、彼女は勇気を出して僕に声をかけたんだ。そして僕はその厚意を受け止めずに、彼女におせっかいだったと思わせてしまった。彼女は、謝る必要なんてないのに。申し訳ないのは完全にこっちである。

「ごめんはこっちだよ。せっかく言ってくれたのに、断っちゃって」

僕は慌てて返す。やっと、謝ることができた。

「右手、大丈夫?」

「あ、これ……うん。もう少しでくっつくんだ。痛みもほとんどないよ」

早く治るといいね、と彼女は優しい笑顔で返す。

なにか手伝えることがあったら言ってね、とは言わなかった。言わなかったけれど、これから僕が困っているときがあったら彼女は助けてくれようとするだろうということはわかった。

押しつけがましくないし、人の気持ちもしっかりと考えてくれる。やっぱり、彼女の隣は居心地がよいと思った。