しばらく過ごしてみると、お酒を飲んでつまみを食べながらホストとお喋りをする、というだけの空間だった。
やはり客との接し方が慣れているのか、話上手な彼との会話は途切れることなく、強張っていた肩はいつの間にか緩んでいた。

「……確かに、ここに通う人の気持ち分かるかも」

なんとなく呟いた言葉は、彼の耳に届いていたらしい。

「本当?嬉しいな」
「なんか……、2次元にいるみたい」
「え?」

お酒を喉に流す。

「かっこいい男の子が、自分だけにやさしくしてくれて、特別って言ってくれる、とか、ありえんもん……」
「……おねえさん酔ってるね?お水飲んでね」

持っていたグラスを奪われて咄嗟に掴んだえんじ色のスーツがくしゃっと皺になる。

「……本屋で見た子が、わたしと同じだっておもったとき、ショックだった……、勘違いしてたじぶんが恥ずかしくて……」

じわりと目の前がぼやける。
酒が入って感情の調節ができない。

辛いときはいつも直哉くんのCDを聴いていた。
声優が台本を読んでいるだけだと分かっていても、耳元で囁かれる励ましと甘い言葉は、傷んだ私の心を癒してくれた。

「……なおやくんのおかげだなぁ」


不意にスーツに触れていた手首を強く掴まれた。
え、と戸惑いを隠せない私のか細い声は、目の前に迫ってきていた綺麗な唇に吸い込まれる。
ふわふわとしていた意識はこの状況を把握するにつれて醒めていき、キスをされている、と認識した時には既に唇は離れていた。

え、なに、いまの。

あまりの唐突な事でフリーズする私は、目の前の男の口元に薄く口紅が移っているのを視界に入れて、ボッと赤面する。
それを見た男はフッと笑みを浮かべた。

からかわれた。

顔に熱がこもるのが分かって、キュッと唇を噛み堪える。
ソファに投げていた鞄を掴み、「かえる」と立ち上がる私に、男はもちろん、三田も驚いたようにこちらを見た。

頬は若干赤いが酔っていないらしい後輩の腕を掴み、財布に入れていた諭吉をテーブルに投げて出口へ向かう。

菱田さん!どうしたんですかっ、と困惑する三田の声を無視して扉を開けてくれた男の横を通り過ぎて地上へと出る。
冷たい風が頬を撫で、火照った体を冷やすには心地よかった。

「……菱田さん?」
「………うッ」

ボロボロとこどものように涙を流す私の背中を、三田は困惑しながら優しく撫でていてくれた。