直接言葉を交わすこともないまま、一カ月が過ぎた。


その水曜は朝からひどい雨で、交通遅延が予想されていた。
だけど取引先回りにそんなことは関係なくて。

押すばかりのスケジュールを調整し続けて、やっと今日のタスクを完了する。
案の定、京王線は大幅に遅れていたし。雨風の中、1日出歩いたスーツと体はくたびれていて。

帰社せず直帰したいのは山々だったけど、預かった機密資料があるからそうもいかない。

金庫に入れて、ソッコー帰ろう。
どうせ今日は、うちの課のノー残業デーだ。



会社の最寄り駅、改札を出たところでビニール傘を失くしたことに気付く。見上げる灰色の空からは、未だ矢のように降る雨の線。

流石に舌打ちを吐きたくなって、渾身の力で飲み込む。
書類を押し込んだ鞄を脇に抱えて、雨を避けながら走る。

普段の3倍の労力をかけて辿り着いたフロアには、思いがけない姿があった。













「お疲れ様です。」


見間違いかと思った。

萩原さんが、誰もいないフロアで一人顔を上げていた。



『あれ?なんで?なんでいるの?』

「なんでって・・・すみません。仕事終わらなくて。」

『違うよ。今日、ノー残業デーでしょ?』


スーツのジャケットを脱いだら、肩が驚くほど濡れていたことに気付く。どうりで体が冷えたわけだ。
傘をさしても、意味なかったかもな。


「ああ・・・はい。」


唇の端を、薬指でカリカリと引っ掻く。
どうやら彼女は、困った時にこれをする。
食堂に向かう女性グループの端で、明らかに「逃げ時を逃した」顔でよく引っ掻いていた。


『なんで帰らなかったの?』

「・・・洗い物とか、ゴミ捨てとか、してて。」

『で?』

「・・・。」


彼女の、何とも言えない表情に思い当たる。


『片付けが終わって戻って来たら、誰もいなかったんだ?』





理解した。

誰も彼女に、このフロアの“締め方”を教えていなかった。
だから、施錠方法が分からない彼女は、ここを開け放したまま帰るわけにもいかず。
ただひたすら、次に帰社する人間を待っていたということ。


1日の行動予定を書き記すホワイトボード、「岩田」の名の隣に俺が書いた“帰社?”のはてなマークを。
彼女はどんな気持ちで見上げていたんだろう。







『ありえないだろ。』

つい、金庫の扉を締める手つきが力任せになった。
重たい金属音が、人気の引いたフロアに響く。