蝶の様に儚く、蜘蛛の様に冷たく

やるべき事――と言ってもあの二人を少々怒っただけだが――を終わらせ執務室に戻ると、矢張り視界にその箱が入る。
近づいて中の絵本を手に取る。
綺麗な絵とよく知るストーリー。

  キスで目覚める白雪姫。
  硝子の靴を履くシンデレラ。
  海を泳ぐ人魚姫。
  空を飛び回るピーターパン。
  噓つきのキノピオ……

遠い昔に何度も何度も読み、憧れた話。

「…懐かしい」

心の中にしまっていた思い出を無意識に手繰り寄せてしまう。

その思い出は、勿論いい思い出ばかりではない。
死の匂いのするものもある。
どちらかと言うと血腥い思い出ばかりだ
逆に、ほんの一瞬の楽しい思い出だってある。
今では考えられない程の美しい思い出達。

そのまま私は絵本のページを捲り続けた。
昼間はそんなに大切な仕事はない。
私達マフィアは、夜の世界の住人だから。

でも、そんな平和な時間も長くは続かない。
部屋の中にけたたましいサイレンの音が鳴り響いたのだ。
部屋を飛び出すとエレベーターに向かいつつ、直ぐに首領に連絡を入れた。

「もしもし。何が起きたのでしょうか」
「茜君、今すぐ剣崎君のいる情報室に向かってほしい」
「と、言うと」
「あぁ。情報が盗まれそうだ」
「わかりました」

返事をしてエレベーターに乗り込む。情報室は確か地下十階にあったはず。
三十五階からなら二分はかかるだろう。

「所で、首領。スパイの処分はどうしますか?」
「生け捕りで拷問か、その場で殺していいよ」

この感じだと生け捕り以外に選択肢はないだろう。
殺した場合、私への処分が下るかもしれない。降格や謹慎は無くとも、減給の可能性はある。ちょっとそれはやだな。
背中に冷や汗が流れた。

「おおよそ、今捕まっている捕虜がいるだろう?彼らと同じ組織の人間だろうね。殺すしかないってなったら、一応殺す前に組織名を聞き出しておいてくれ。因みに捕虜達の組織名は“シリウス・レイ”だって。拷問する間もなく洗い浚い喋っていたらしい。全く。根性なしだと思わないかい?」

エレベーターが地下十階に着いたことを知らせる。
扉がゆっくりと開く。

「我々の組織の拷問の苛烈さは有名ですからね。情報室に着いたので切りますね」
「分かった。…あぁ、茜君」

首領のニヤリと笑った顔が思い起こされる。

「…なんでしょう?」
「くれぐれも丁寧に相手しなさい。対応は何時でも丁寧に…ね?」
「はい。首領」

携帯をポケットに滑り込ませ、血の入った瓶を取り出す。
ふたを開けると同時に扉を蹴破った。

◇◆◆◇◆◆◇

血の匂いがする部屋で立っているのは、私と剣崎朔(けんざき さく)、スパイ、そして数名の構成員だけだった。

「…茜さん。これは少しやり過ぎです。お陰で報告書が見るも無残な姿になっています」

神経質そうに眼鏡の縁を持ち上げた剣崎さんはため息交じりにそう言った。
スーツに眼鏡姿の彼は二十七歳の情報管理班長である。「記憶操作」の持ち主だ。

「四割は私だけど、六割は此奴でしょう?それに私の力で元に戻せるからいいじゃないですか」
「それでも、徹夜して仕上げた報告書がこんなになっていたら悲しくなります」
「痛覚はほとんどないのに心は痛むんですね」
「話をそらさないでください!!」
「はいはい」

返事しつつ、スパイの方に目線を戻す。
今は私の作り出した血液の縄で雁字搦めになって宙に浮いている。
もがいてはいるがその抵抗は意味をなしていない。
報告書に付いていた血液で更に縛り付ける。
スパイは女性だった。

「ねぇ、スパイさん。貴女の名前と所属組織を教えて?能力を持ってるならそれも」
「言う、とっ…思う?」
「言わないとちょっとずつ身体を切り落としていくよ?」

にこりと笑って見せる。

恐怖と苦悶の表情を浮かべた彼女は諦めた顔で溜息をついた。

「…名前は蒼音実花(あおね みか)。組織はシリウス・レイ。能力は…」
「うん?」

軽い殺気に彼女は少し気圧された。

「能力は、音操作だ」
「…やっぱりね。剣崎さん、一応聞くけど、噓ついてますか?」
「いいえ、ついてませんね」
「ありがとう。貴女の目的は…まぁ、情報を盗むこと、か」
「そうだ。あと、捕まった二人を助け出すようにも言われた」
「ふーん。なのに捕まったんだ」
「…くっ」

自分の勘が訴える。この子は使える、と。
そして、同時にとある記憶が蘇った。
悔し気な彼女の拘束を緩め、静かに降ろした。
すると、彼女は、え?と言う顔をした。

「ちょっと?茜さ…」
「気に入った」
「「は?」」

蒼音と剣崎さんの声が重なった。

「私の直属の部下にする」
「え?ちょ?はいぃぃ!?」
「ふーん…。幹部は直属の部下を何人か雇い入れる権利がある。それを使うのかい?…茜君」

扉の方から聞こえた声に全員が反応する。
私と剣崎さん、蒼音以外はその場に跪き、剣崎さんは首を垂れていた。

「よろしいでしょうか、首領」
「君が自由に選んでいいんだからいいよ。君もそれでいいかい?」

首領は蒼音の顔を見て言った。

「…はい」
「じゃあ、決まりだね。君、裏切ったら…分かるよね?」
「分かっています」

緊張した面持ちで蒼音は答える。

「大丈夫です。私がいますので」
「そうだね。じゃあ、後で報告に来るように」
「はい。首領…」


首領の出ていった部屋で最初に声を発したのは剣崎さんだった。

「茜さん!一体何を考えているんですか!?」
「それに何で私なんだ?敵のスパイだぞ!?」

蒼音も声を上げる。
なんとなぁく似てるな、と思った。

「何を考えてるって…。そのままですよ?」
「彼女をうちに、迎えるてことですか?」
「うん」
「仮にも、彼女は敵方の諜報員なんですよ?」
「そうだ。それに、お前たちの仲間を殺そうとした…」
「知ってるよ?でも、殺してはいない。貴女、人を殺したことがないでしょう?」

気になっていた点を指摘すると蒼音はぴくっと反応した。

「な、なんでそれを…」
「まず、戦闘の仕方。急所の首に向かってナイフを投げずに腕とか足とか動きを封じるように攻撃していた。あと、いつまで経っても、どんなにスキを見せても、とどめを刺さなかった」
「それは、経験が浅くてスキがあったのに気づかなかっただけでは」
「いや、気づいてましたよ?それともう一つ。」

私は、止血を施されている部下を見ながら言った。

「彼の首にナイフが刺さりそうになった時、直ぐにもう一本のナイフで軌道を変えていた。つまり」
「つまり…?」
「蒼音は、人を殺せない。理由は知らないけど、合ってる?」

拘束を解かれた蒼音は溜息と共に両手を上げた。

「そうだ。私は、人を殺せない」
「なぜです?」
「それは…」

深く追求しようとする剣崎さんを止める。

「剣崎さん。それ以上追求しないであげてください。この界隈に身の上話をしたがらない人はたくさんいますから」
「っ…。ごめんなさい」

剣崎さんも過去に大きな傷を負っている。
痛覚が殆どないのもその過去が関係していた。

「大丈夫だ。…気にしなくていい」

この様子だと、相当重い過去を持っているようだ。

「じゃあ、そろそろ私は戻ろうかな…。あ、報告書に付いた血は…?」
「勿論取っていってください!!何忘れてました~みたいな顔してるんですか!?」
「あはは。ごめんなさい。じゃあ終わらせますね~」

少し気を指先に集中させて、くいっと曲げる。
すると、血液たちは宙を舞い、私の手の上で球体になった。

「おぉっ…」

蒼音は少し驚きつつ、感嘆の声を上げた。

「それじゃあ、失礼するよ?報告書、遅れないようにしてくださいね」
「誰の所為で遅れそうになっていると思っているんですか!!」
「さぁ?ねぇ、蒼音」
「え?あ、あぁ」
「蒼音さん、貴女まで…」

到着したエレベーターに乗り込み、三十五階のボタンを押す。
扉が閉まると同時にエレベーターは上り始めた。