パンドラと恋慕





 こちらからだとひな乃の後ろ姿しか見えないので、どんな表情を浮かべているのか分からない。

 だが、凍てつく氷のような目つきが俺の頭を過った。



 ひな乃は有無を言わさない、整然たる態度で語り出した。


「私は、駿河先輩に注意をしたのです。ですが、曖昧な言い回しだったので上手く伝わらなかったようで」


 ティカップを新聞紙に包み、丁寧に鞄へしまう。



 その仕草は至って平然としていて、軽やかで、ひな乃が遠い存在に感じられる。


「«死神»__あの女は、貴方から生気を奪います。«毒牙»を持って、何度でも駿河先輩の元へ訪れるでしょう、怨み殺されるのも、近いでしょう」


 __駿河先輩。

ひな乃が俺をそう呼ぶ時は、強く、牽制をする時。

 蛇に睨まれたように、金縛りにあったかのように、身体が動かない。


 しばらくひな乃がそのような態度を見せることはなかったし、具合悪そうにした時頼ってくれたので、安心し切っていた。


 夜空にある星々のように、確かに目に見えるのに手を伸ばそうが絶対に届かない。朝になれば霞んで見えなくなる、幻想のようで。


 ひな乃に近付けた、と思ったのはただの思い上がりで、もっと知りたいなどと欲を覚えたのは、恥ずかしい勘違いでしかなくて。

 だから、こうして俺を侮蔑する目で見据え、駿河先輩、と俺を呼ぶのだ。



 ひな乃は黙りこくった。俺は、茫然とするほかない。



「私のことを、信じてくださるのならば__…」


「…ひな乃?」


「私以外を、見ないで…信じないでください」



 漆黒の瞳が哀しげに揺れた。


 先程までの凛とした口調が嘘みたいに、弱々しくて、胸が締め付けられる。

 ひな乃が弱気な表情でそんな風に言うのは、初めてで、俺の心は、磁石のように惹きつけられていく。


 欲しかったモノを、思わぬ形で得た。そんな、違和感のある言葉と表情だった。

 

「ごめんなさい、今のは忘れてください。嘘、です。先に、帰りますね」


 ひな乃は視線を落とした。

 瞳を縁取る、黒い柔らかなまつげを揺らす、瞬きにすら集中して魅入る。



 今の言葉は、俺に対する、その…独占欲なのだろうか。
それとも、また別の、意味深長なニュアンスで語ったのだろうか。とはいえ、“嘘”と撤回したので意味のない言葉なのかも知れない、。

 しかし、俺の心臓の鼓動は鳴り止まない。頭が、パンクしてしまいそうなくらい、パニックに陥っている。


 そんな俺をよそに、2本に結われた髪を揺らし、スカートをヒラリと翻して、ソファを横切り、狐色のドアへ吸い込まれていく。



「駿河先輩」



 __日曜日、楽しんできてくださいね。





 その口調は、もう、普段のひな乃のものであった。