ガラス扉が閉まるとウィスタリアはそのまま広間を抜けた。一度だけ来たことのあるこの城の手洗い場を彼女は今でも忘れていない。王の住まう城で記念祭が執り行われることもあり、両親亡きあと長女であるウィスタリアが代わりに出席した時の記憶だ。

民に解放されている手洗い場は王はもちろん、城仕えの者たちが利用する場とも異なっており、ありふれたものをイメージしていた彼女は花の園に飛び込んだかのようなその美しさに衝撃を受けた。


――きっと誰もが夢見る。”こんな素敵なお城のお姫様になりたい”
そして隣で微笑んでいる王子様は――

――キュリオ様――……


”お嬢様がまったく食事を口にしてくださらなくて……”

”ふふっ、そろそろ限界かな? いい加減顔を見せてあげないと可哀想だね”


虚ろな瞳で力なく歩くウィスタリアは、バルコニーでのキュリオと女官のやりとりが頭から離れない。しかし、楽しそうに会話していた二人に嫉妬したわけではなく……彼らの会話に登場した女の存在に気が狂いそうなほどの深い憎悪の念が沸き上がり彼女を支配していた。

(……私からキュリオ様を奪うのは……だ、れ……?)

妖しい光を瞳に宿した一の女神は手洗い場のある一階への階段を降りることはせず、二階の通路をどこまでも進んでいく。しかしウィスタリアはただ宛てもなく歩みを進めているわけではない。彼女は探していたのだ。この城に住まう憎き女の姿を――……。

 そんな彼女の後方から人の足音が近づいてくる。咄嗟に角を曲がり、身を隠したウィスタリア。息をひそめながらその人物が通り過ぎるのを待つと、視界の端に映ったのは先程キュリオのもとへやってきた間の悪いあの女官だった。

「…………」

ウィスタリアは気配を殺しながら彼女の後をつける。
やがて立ち止まった女官は尾行されていることに気づかず、ひとつの扉へと入って行った。

「馬鹿な女……案内ご苦労様」
――嘲笑うかのように口角をあげ、扉を見つめる恐ろしい形相の女神。普段の彼女からは想像も出来ぬほどに粗暴な言動と行動だった。

「もう少々お待ちくださいお嬢様。間もなくキュリオ様がお見えになりますわ」

テラスから戻った女官は侍女の抱えている赤子へと微笑みながら言葉をかけた。するとその侍女はホッとしたように腕の中の小さな少女から女官へと視線をうつす。

「ではさっそく、あたたかいミルクを作り直してまいりますね」

「ええ、お願いするわ」

にこやかに顔を合せたは二人は赤子を抱くのを交代し、女官に赤子を任せた侍女は足早に扉を出て行く。
 その時、扉の前で様子を伺っていたウィスタリアは気配が扉に近づいたことを察知し、通路にある柱の陰にその身を隠した。

――ガチャッ

扉が開き、姿を見せた侍女は女神の気配に気づくことなくパタパタと急ぎ足で目の前を通り過ぎていく。

(……さっきとは違う女ね……)

「…………」

ふらりと扉に近づいたウィスタリアは静かに扉をノックした。

『はい? 開いておりますよ』

室内から聞こえてきたのは先ほどテラスにやってきた女官の声に間違いなかった。

「…………」

しかしウィスタリアは何も答えない。

『……? どうぞ?』

返事のないノックを疑問に思った女官が再度声かけてきた。

『……両手がふさがっているのかしら?』

――キィ……

「……っ!?」

扉の向こうに立つ人物を確認した女官は驚き、まさかの訪問者に困惑の色を浮かべている。
それもそのばず……王に仕える身でもない者が案内された部屋以外に立ち入るなど#以__もっ__#ての#外__ほか__#だからだ。

「……ウ、ウィスタリア様……なぜ、こちらに……」

「ふふっ……ごきげんよう」

目の前に立つ彼女は不気味なほどに深い笑みを浮かべ言葉を発した。
そして一瞬目付きが鋭くなったかと思うと、あっという間に女官を押しのけて室内へと大きく足を踏み入れたのだった――。