「母さんがそれは譲らなかったんだよ」
自宅のドアを開けてのんびり靴を脱ぐ聡次郎さんに詰め寄った。
「困ります! そんなことは契約に入ってない!」
「じゃあ契約更新ってことで」
聡次郎さんは最後に再び「悪いけど」と少しも悪いと思っていない口調で付け足した。
「梨香にとっては面倒だろうけど、本店で働いてくれたら契約とは別にちゃんと給料も払うし、交通費も支給する。カフェの仕事が中心でいいから勤務時間も梨香に合わせる」
「…………」
大変なことになったけれどこの話自体は悪くない。聡次郎さんは『契約とは別に』を強調したのだ。カフェの仕事を中心にできるようなバイトをもう1つ探していた。ここなら自宅も遠くないし通いやすい。大きな企業の本店といっても、お茶を売るだけなのだから深い知識は必要ないだろうと思った。
「いつまでですか?」
最初の契約は結婚準備をしていると見せかけて数ヵ月後に別れたことにするものだった。結婚を見据え本店で働くとなると話は違ってくる。
「別にいつまででもいいよ。どうせ別れるんだから」
「はい?」
「梨香が母さんに認められても認められなくてもどっちでもいいんだ。縁談が破談になるならね。本店勤務自体はすぐ辞めてもいいよ。バカ息子がバカな女を選んだって呆れられていいかもしれないから、適当で」
「…………」
「真面目に働く必要はない。龍峯に相応しくないと思われる働き方で」



