「俺今は別の会社に勤めてるけど、辞めてこの龍峯茶園を手伝うことになってる」

「そうなんですか? あ、いえ、そうなんだ……」

聡次郎さんは言い直した私に「その調子」と微笑んだ。恋人関係を維持するには私がもっとリラックスしなければ。

「母親と兄貴が会社を手伝えってうるさくて。しかも俺にお見合いの話付き。さすがにそれは断りたいから梨香にお願いしたんだ」

聡次郎さんに梨香と呼び捨てにされるのはこそばゆい。

「龍峯茶園はそれなりに名前の通った企業になったから、婚約者のふりをしてって頼んだやつがネットとかで変に情報を流されると企業の名前に傷がつくんだよ」

「それで絶対に秘密なんですね」

「そういうこと。こんな変わった提案は面白がってSNSに投稿するやつがいそうだからな」

だから報酬も多すぎるほどの額が書かれている。大企業の関係者ならこれくらいは払えてしまえるのだろう。

「梨香もそういうことはやめてくれ」

「それは大丈夫です。絶対に」

万が一ネットに出してしまったとしたら被害は私だって小さくない。それに、私に頭を下げてくれた2人を、特に月島さんを失望させたくないなと思った。

聡次郎さんはトレーに湯飲みを2つ載せてテーブルに運んできた。

「契約書にサインして」

そう言って私にボールペンを差し出した。

聡次郎さんの正体を知っていれば婚約者のふりなんて引き受けなかった。けれどもう引き返すことは出来ない。私はボールペンを受け取り契約書にサインした。

「明人が今度通帳のコピーをくれってさ。前金振り込むから」

「はい」

きちんと報酬を払ってくれるところは安心できる。契約自体は問題がない。