「どう? 老舗企業の関係者の婚約者になった気分は」
「あ……」
「この家にいつか住むと思うくらいの気持ちで演技してよ」
「っ……はい……」
綺麗な顔の聡次郎さんが微笑んだから照れてしまう。
うっかり状況を忘れてしまうところだった。私は一応雇われている身。遊びに来たわけじゃないのだ。
「ここにはご家族と住んでるんですか?」
「いや、この部屋は俺だけ。兄貴夫婦は上の階で、母親は更にその上の階に住んでる」
では16階のこの広い部屋が全て聡次郎さんだけの自宅なのだ。
「緊張します……」
今になって後悔し始めた。この人はただの会社員なんかじゃない。私は龍峯茶園という老舗企業の社長の弟と契約してしまったのだ。
「緊張する必要ない。俺と付き合っているふりをするだけなんだから簡単だろ。お茶に詳しくなくたって平気なんだし」
横に立って一緒に外を見下ろした彼は打って変わって目を細め唇をきつく結んでいた。まるで感情の一切を殺してしまったかのように。
「リラックスしろよ。さっきからずっと敬語だぞ」
「あ」
敬語は禁止だと言われたばかりなのに。年上の聡次郎さんに急に砕けた口調にしろと言われても難しい。
「今から打ち合わせを始めるよ」
「はい」
「何か飲む?」
「いえ、おかまいなく」
聡次郎さんはソファーに座るようにと私を促し、キッチンで電気ポットに水を入れてお湯を沸かし始めた。
私は遠慮がちにソファーに座ると改めて部屋を見回した。余計なものは一切置かれていないリビングには生活感がまるでない。引き戸で仕切られた隣の部屋は寝室だろうと思われる。



