無言で車を運転する龍峯さんの横で私は契約書に目を通した。文字は小さくても契約内容はそう難しい言葉ではなかった。契約主である龍峯さんに従うこと、契約していることを誰にも言ってはいけないことなどの簡単な内容だ。それに報酬として十分すぎるほどの金額が書かれている。

「こんなにいただけるんですか?」

「驚くほどの金額が書いてあるの? 俺はいくらか知らないんだけど、明人が書いた金額でいいよ」

ただの会社員がすぐに出せる金額ではなかった。一体この人は何者なのだろう。

気がつけば車はオフィス街の大通りを走っていた。

「ここ……古明橋ですか? ご自宅はどこなんですか?」

「古明橋」

「え? この辺り? ここから近いんですか?」

「そう」

「すごいですね、こんなオフィス街に自宅があるなんて」

大手企業が集中するこの古明橋に住んでいるなんて、龍峯さんはよっぽど収入がなければ難しいはず。

「あのさ、敬語やめない?」

「え?」

「婚約者なのにいつまでも敬語っておかしいでしょ」

「そうですね……」

「よそよそしいなんて不自然だ。今から禁止ね」

もうただの知り合いじゃない。私はこの人の婚約者なのだ。

「下の名前なんていうんだっけ」

「梨香です」

「じゃあ梨香って呼ぶよ」

「はい。龍峯さんのことは?」

「聡次郎でいい」

「聡次郎さん……」

名前の呼び方を意識した瞬間2人きりで車に乗っていることが恥ずかしくなってきた。この人と偽物でも婚約者になるなんて現実味がなくて緊張する。

大きなビルの角を曲がりビルの裏から駐車場に入って車は停止した。

「着いたよ」

「え? でもここって……」

オフィス街に溶け込むビル。どう見てもマンションなどではなく会社なのに。