「なるほど」
見えてきたぞ。普通の女の子の生活を見直すという着眼点に間違いは無い。これは突破口になりそうだ。
いいですか、といつかのように、僕は上杉部長になる。
「この世に魔法が使える人間は居ません。使えないからこそ憧れが強くなる。雑誌にあるのは、そういう理由です。このようなミラクルはひとえに成功者の努力です。魔法ではありません」
「そうでしょうか」
彼女はムキになると、バッグから別の雑誌を取り出してページを開いた。
〝普通の主婦が、一瞬で美魔女に〟
「努力が一瞬って、変じゃありません?これはどう言い訳なさるの?」
「あ、や、これは……」
高町さんは悪くない。恐らく洗脳する世間に全ての問題がある。これは殆ど詐欺なんです……と、それを言って周りのアラフィフを敵に回したくも無かった。
「私も、普通の人間としてこのような魔法を使い、今までを一変させるような変化を経験したいと思っています」
いけないと思いつつ、僕は鼻で笑ってしまった。
「高町さんのようなお嬢様は、まず普通にはなれません。生活を変える事自体無理でしょう。一人で暮らす勇気も、覚悟も無いのに」
山形から上京して8年目。
駅が遠いとかバスが来ないとか、それだけの事に愚痴を言う都会人を多く見てきた。遠いという駅は歩いて20分足らず。バスだって10分待てば次が来る。
電車が動かないという理由で駅員にケンカを売る乗客なんて、それまでテレビでしか見た事無い。上京するまで、そんな奴が本当に居ると知らなかった。
大雪で動かない電車を、それでも唯一として宛てにするしかない地方を愚弄してるとしか思えない。現状に文句を言うなら、全部自分で動かしてみろと言いたくなる。何でも当り前と思う所に、都会の傲慢が見え隠れして……高町さんを相手に、僕は田舎者あるあるを愚痴っていた。気が付いた時はもう遅い。
「分かりました」
その目が据わっている。
「早速、山形に参りましょう。私は今日から家を出ます」
ギョッとした。やりかねない。高町社長にドヤされる!と頭に浮かんだ。
「ま、待って下さい。すみません。言い過ぎました。というか、家を出るというのはレベルが高いので、もうちょっと社会勉強してからがいいと」
「社会勉強ですか」
「そうです。はいはい」
「分かりました。ではまずは社会強会を、よろしくお願い致します」
ここは頷くしかない。とはいえ、これもまた約束したと言い張る予感がする。
このお嬢様は最高レベルで難物だと思った。ああ言えばこう言う。
思えば……これまで上杉部長の付き添いで、僕は数々の講義を経験してきた。攻撃的な質問をしてくる参加者を何人も見ている。だからというワケじゃないが、ここでお嬢様如きを説得できない僕が、講義でエラそうに参加者を前に演説をブチ上げる事なんて出来るのか。若干、5年目のスキルがどこまで通用するのか、試してやろうじゃないかという気にもなる。
「とりあえず、今日はどうしましょうか」
僕は展開を先に進めたものの、お嬢様が何を望むのか、いまいち分からない。彼女もまた、雑誌をめくりながら迷い始めた。一体、何冊の雑誌を持ち歩いているのだろう。意外と腕力あるのか。
「せっかく鈴木さんが協力して下さるというのに、小さい事しか浮かばなくて」
どうしよう、と悩んでいる。
「小さい事でいいじゃないですか。普通なんてそんなもんですよ」
「地下鉄車内でランチ。道路でお昼寝。コンビニの前でカエルのように座る」
「絶対やらないで下さい。どれも普通じゃありません」
一体、どういう本を読んでいるのか。「普通じゃない」と彼女はそこだけ繰り返して、赤ペンで大きくバツを付けると「分かりました」と彼女は神妙に頷いた。兄貴の受信メール〝鈴木くんの言う事を聞け〟が発動したのかもしれない。早速、効力を発揮してくれる。
「勉強不足で申し訳ございません。少々、時間を貰えませんか」
「いや、そんな難しく考えなくても、簡単に食事とか買い物とか」
「いいえ。そんな事ならいつでも出来ます。こんなチャンス滅多にないのに」
普通に憧れて、なのに普通に食事も買い物もやらないとはどういう矛盾だろう。
お嬢様は一心不乱に雑誌をめくっている。すっかり紅茶は冷めていた。会計を見ると、飲み物2つで1600円。マジか。普通じゃない。とはいえ、払って困らない微妙な金額。これを高町社長に請求するというのも気が引ける。
「実は……兄の紹介で、男性とまたお会いする事になりました」
「そうですか。おめでとうございます」と言ってはみたものの、今のままでは、また魔法魔法と言いかねない。
僕は心を鬼にして、
「とにかく魔法の話はNGですからね」
「だめですか」
「言いましたよね。普通は最初からその話はしません。普通は」
「それが普通なんですね。わかりました」
切り札は〝普通〟。これはもう鉄板になる。
「お相手が魔法使いでありますように。鈴木さん、ぜひそのような魔法を」
「出来ません。何度も言ってるでしょう。僕は普通の人間です」
うふふ、と笑った。
「鈴木さんには、そのうち大きなミラクルの予感がしますわ」
昇給。栄転。まさか高町グループにヘッドハンティング?
……白状しよう。一瞬だけ、愚か者は夢を見た。
次にお嬢様が開いた雑誌は、かの結婚情報誌〝○クシィ〟である。それは夢を見過ぎると思うんだが。
「鈴木さん、このマリッジブルーというのは深刻な病なのですか」
「それは、結婚が決まった後に訪れるといいます。高町さんは普通に出会って、普通にお見合いして結婚したいと熱望されている普通の女性ですから、無縁でしょう」
嫌味に聞こえないよう細心の注意を払ったつもり。
お嬢様は何食わぬ顔だった。
「このウェディング・チャレンジというのも、やってみたいのですが」
「必要ありません。結婚出来なくて困る人がやる事です」
彼女は僕をジッと見ている。や、まさに高町さんはそういう人だな。
まさか。
「や、やりますか」
「はい。ぜひ」
研修でも必ず1つは実習を入れる。それ位なら、と覚悟を決めた。
「〝もし○○できたら、○○さんと結婚できます〟と願を掛けます」
このように、と本の一例を差したらば。
「鈴木さん、ぜひお手本を」
思うんだが、このお嬢様はムチャ振りを楽しむ傾向にないだろうか。
ま、それ位ならいいか。
「もし3分息を止める事が出来たら、僕は〝渡辺麻友〟と結婚できます」
それを聞いたお嬢様は小首を傾げる。
「存じ上げなくて申し訳ございません。それは、どういう方ですか」
「僕が個人的に応援している芸能人です」
この人です、とスマホで呼び出して画像を見せた。彼女が身を乗り出してお互いの距離が近付くと、微かな紅茶の香りに混じって、その口元あたりからケーキみたいな甘い香りがする。女性社員とここまで近付く事なんか、仕事中は良くある事だ。特別引っ掛かる事でも何でも無い。なのに、何故か僕はすぐに息を止めた。まだチャレンジは始まってもいないというのに。
彼女はしばらく画像を眺めて、
「私の友達の、サヤカちゃんにすごく似ています」
「本当ですか」
彼女もスマホで、その友達を見せてくれて……そうでもない。
「鈴木さんは、その方との御結婚を掛けてチャレンジなさるのね」
「えぇ、まあ」としか言えない。「じゃ、いきます」
せーの!
まゆゆ、と……ではなく、高町巫果嬢と見詰め会ってチャレンジすると言う格好になった。およそ10センチという近距離にまで接近。その瞳の中には、必死で呼吸をこらえる自分が映っている。紅茶の香りもケーキの匂いも感じないとうのに、これは別の意味で拷問に近い。
あと一息で3分という所で、僕の携帯が鳴った。誰かと思えば山形の親父である。いつもそうだがタイミングが悪い。いきなり「何の連絡も無ぇな。生きてんのか」と怒られた。「今年の新米、いつ送ろうか」そんなようなトボけた事を言っている。「はいはい。いつでも。生きてるからどうでも」適当に相手をして通話を終えた。その間、ずっとお嬢様は僕の顔を疑視している。
そして、
「今のチャレンジは、どうだったんでしょうか」
「邪魔が入りました。ノー・ウェディング。つまり失敗です」
「もしそれが成功して結婚できたら、まるで魔法じゃないですか」
単なるお遊びですよ……と言えないくらい高町さんが大喜びだった。彼女が言う事もあながち間違ってはいないと思う。それで僕が本当に〝渡辺麻友〟と結婚できたら、まさに魔法だ。周囲もびっくりのミラクル大成功である。
ふんふん、と彼女は大喜びで何やらメモった。そこからまた雑誌に戻り、ふと、とあるページで手が止まったと思えば、
「この、プロポーズ。私は何をすればいいでしょう」
「それは……待ってて下さい」
「待つ?」
「これは今現代、一般的に男の仕事です。高町さんは、ただ待っていればいいんです。待ってる間に思う存分、楽しい事を考えて」
「わかりました」
思い出したように、僕はコーヒーをすすった。
「お見合い、今度は上手く行くといいですね」
それは本気で思う。彼女の長所を軸にして、魔法云々、それを面白い趣味だと笑い飛ばしてくれるような心の広い相手なら言う事無いだろう。
高町さんは「それが」とそこから言いにくそうに「今度はお見合いという形ではありません。その方というのは、今度の社内運動会にいらっしゃるのです」
そうなのか。
「今までの形式的なお見合いよりも、そういった自然な出会いの方が良いと、兄が言うものですから」
「あぁ」と僕はいつかを思い出して頷いた。確か、高町社長はそんな事を言っていたな。あの時は……まるで自分の事を言われたような気になって……自惚れが強すぎる。ガチで恥ずい。勘違いもいいとこだ。
「私、大丈夫でしょうか」
「最初から魔法を持ち出さなければ上手くいきますよ。大丈夫」
高町さんはため息をついて、「自信がありません」と伏し目がちになる。
やっぱり魔法から離れる事ができないのか。
彼女が自信を持てないというなら、この世のどんな女性が自信を持てるのか。
「僕のような一般男子からして、高町さんは高嶺の花。そしてどんな誰が見ても素敵な女性です。そこに自信を持って下さい」
高町さんの頬が一瞬で赤く染まる。僕は少々盛りすぎたか。
「……さすがだわ。鈴木さんの魔法の力は私の想像を超えています」
「これぐらい誰でも言いますよ」
「いいえ。いいえ。私、頑張れる気がしてきました。凄く」
「そ、それはよかった」
彼女はメモしながら冷静を取り戻し、僕と目が合った途端、また頬を赤く染める。冷めた紅茶を飲んだり、ハンカチを取り出してぎゅっと握りしめ……赤くなったり白くなったり、それを何度も繰り返した。僕は少々盛り過ぎた事を激しく後悔する。お嬢様がこういう状況に慣れていない事は分かった。見ているこっちが小っ恥ずかしい。そこから残りのコーヒーを一気飲みして、僕は冷静を取り戻した。
雑誌を手早くまとめたかと思うと「家で復習いたします」と彼女は立ち上がる。ぺこっとお辞儀した。僕もすぐさま立ち上がり、同じようにお辞儀を返す。
ちょっと見、まるでお見合い。あるいは何かの面接。「ではまた」と彼女の方から社交辞令を放って、そこから急いで立ち去って行った。あ!連絡するなら今度は僕の携帯に……と言う筈が間に合わない。手元には、コーヒーと紅茶、飲み物2つで1600円というお会計がまた残された。と思っていたら、レジで「お代は頂戴しております」と聞かされる。今日1番嬉しかった。浮いたお金で足裏マッサージが追加できるかもしれない。
今日も心行くまで、健康ランドでまったりしよう!
この次、お嬢様に会ったら……会う事があるとしたらその時は言うつもりだ。
〝あなたと会うのは今日が最後です〟