そろそろ6時という頃合い、「あと1つ片づけなきゃ」という林檎さんと別れたそこに、高町グループの現社長、高町皇(たかまち・みこと)様が御来社、と告げられた。その御方は上杉部長と旧知の仲であり、部長が本社に異動になってからというもの、たまにふらりと遊びに来る。部長と同じ35歳。父親を早くに亡くし、後を継いで社長職に就いた若きリーダー。「リアル王子様、来たっ」とばかりに、我が社の女性社員・男性社員に一瞬の緊張が走る。だがこの所は「1つ終わらせて来るから適当にやってろ」と部長が雑に扱う事にすっかり慣れてきて、「お茶、美味いね。マカロン貰ったよ」と給湯室で勝手に冷蔵庫を開けるような、そんな御本人の砕けた雰囲気も手伝ってなのか、自然と馴染んできている。今も、書類で埋もれた部長席で一息ついて、「今ぐらいから仕事がノッてくるんだけど、そういう事って無い?」と目の前の社員と残業の是非について論じ合っていた。
程無くして部長が戻ってくると「おう」「おう」と適当に挨拶を交わす。そこから、高町グループが来月開催する社内運動会に話題が変わった。去年、そういった行事の請負会社を部長から紹介されて、無事開催されたワケだが。
「異動先まで押しかけて悪いんだけどさ、今年も頼むよ」
我が社も1グループで参加する(させられる)予定だと告げられた。
「今年は協力会社にも声を掛けようかな、と思ってる」
社内運動会は、この所、大きなブームになりつつある。「コミュ研修なんかやるより効果が絶大だ。恐ろしい」と部長が脅威を感じるほどだ。
上杉部長に目配せされて、僕はさっそく電話を掛ける。部長がペットボトルの水を空けると同時に繋がって、そこでタイミング良く電話を代わった。
鶴の一声で、契約完了。
「もうちょっと早く言え、ってさ」
「はは。やっぱり」
「おまえんとこ、デカいんだよ。あっちの迷惑も考えろ」
上杉部長は高町社長を咎めた。ちょっと見、どっちの立場が上か分からない。
「面倒だから向こう3年間契約した。旨みを考えたら大喜びで捻じ込むだろ」
無関係な人間が勝手に決済する。ここ以外でこんなの、聞いた事が無い。
目的を果たしたら、そろそろお帰りに……という頃会い、高町社長は「ちょっといいかな」と改まって席を立った。どうも本筋は別の事らしい。そこから会議室に移動する事になる。「お茶はいいや。鈴木くんも来て」
何やら、只事じゃない予感がするワケだが。
会議室で3人になった途端、
「おまえ最近、ジムとか行ってる?」
「そんな暇無い。この後に予定もある。さっさと本題を言え」
そこで高町社長は観念すると、
「実は、うちの妹の事なんだけどさ」
何やら深刻そうに本題に入った。
高町家の3番目。ご令嬢・高町巫果さん。聞けば、高町家は適齢期の長男長女を差し置いて、若干22歳現役女子大生の末っ子が婚活に躍起になっている。
「22で?」と、僕も思わず声を上げてしまった。そこで社長がおもむろに取り出した写真を、上杉部長と一緒になって覗き込む。
「以前、ちょっと見た事がある」と部長は言った。「そんときは確かまだ中学生だった。見た所、特別おかしな所はない」というけれど。
「凄く可愛い方じゃないですか」
薄桃色の着物を身に纏い、ちょこんと椅子に腰掛けて、微笑みを湛えている。
写真の修正を差し引いたとしても、十二分に可愛らしい女性だった。
「さすが鈴木くん。分かってらっしゃる」と高町社長は嬉しそうに笑う。
「気のせい。あるいは社交辞令。恐らく超シスコンだ」と部長がメッタ切り。
自分も一瞬、同じ事を思った。途端、高町社長の笑顔が一瞬で曇る。部長のメッタ切りが原因かと思ったが、そうではないようで。
「その妹なんだけどさ、見合い相手から断わられてばかりで。何が悪いのか問い質しても、相手は誰も言葉を濁して教えてくれないし」
「……相手が警戒されたんでは?」
失礼を承知で口を挟んだ。家柄とか若過ぎるとか。そんな理由だと思う。
相手も20代、年齢的にも価値観的にも釣り合うはずだと、高町社長は言った。
「結婚するかどうかは別として、友達付き合いにすら発展しないというのはどういう事なのかな」と投げかけてくる。「ちょっとでも好いなと思ったら、メルアドとかラインとか、普通に交換しても良さそうなもんじゃない?」
僕は部長を垣間見た。部長はわずかに眉を上げてくる。
「うちの巫果は、男の子とまともに話が出来なくなってるんじゃないか」
高町社長は兄として悩みが尽きない。まるで父親。こりゃ重症だという気がする。部長は苦笑い。社長は、「巫果はぼんやりしてるから」と笑い飛ばして、「こうなったら上杉が貰ってくれ」とブッ込んできた。
「地獄的に残念だ。もう間に合ってる」
林檎さんにチクろう、本気でそう思った。
「もう1人の妹は奔放過ぎて。もう30歳なのに。こっちは早く結婚して落ち着けよと思う。お見合いも、何度もドタキャンする困った奴だ」
「そういうおまえだって、そろそろ落ち着けとか言われる年だろ」
「おまえもだろ」と、上杉部長は返り討ちを喰らって肩をすくめた。
高町社長は、ルックスも社会的地位も申し分なく、素朴なキャラも手伝って、結婚相手には困らない人だろう。お見合いしたとかするとか、そういった話も聞かない訳じゃないのに、何故か未だ独身である。
どうして僕がここに居るのか。一種、奇妙な感覚に捉われた。恵まれた2人に挟まれて嫉妬というのもおこがましいと、僕は少々複雑な気持ちになる。
鈴木、と呼ばれた。思わずメモをチャージ。
「女はどっちでもいい。どうにか仲良くなって高町グループに食い込め」
仕事の話かと思って構えて損した。「何言ってんですか、もう」
高町社長を窺うと、ニコニコしている。本気に取っていない事が救いだ。
「高町さんみたいな家に、僕なんか無理に決まってるじゃないですか」
「あ?」
しまった……。
〝でも。だって。なんか〟これは上杉東彦の3大NGワードである。
「ぼ、僕が言いたいのは、そういう付き合いを知らないっていうか」
しどろもどろで言い訳している間に、1つ2つ電話が入って水を差される。というか、命拾いする。「実は、巫果に次のお見合いが決まってさ」と話題が移った事をこれ幸いと、僕はそこから気配を消した。
「どんな様子なのか見たい気持ちもあるんだけど、俺が立ち会うとなると相手も構えるし。巫果も嫌がるからなぁ」
おまえさ、こっそり様子を見て行ってくれないかな……とか言われている。流れが何となく見えてきて、僕はやっぱりメモをチャージしたまま待機していた。
「こう見えて意外と顔を知られてんだよ。あの界隈をフラフラしたら目立つ」
確かに。
本を出して以来、ビジネスパーソンとして部長は少々注目を浴び始めた。というか部長は普通にしていても目立つから。……あれ?嫌な予感が。
鈴木、とまた呼ばれた。
「おまえ行け」
やっぱり。思わず天を仰いでため息をつく。
「世間的にここまで迷彩を放つ人類も珍しい。適任だと思う」
上杉部長の口から、これほど消極的なプレゼンを聞くとは思っても見なかった。
「すみませんね、これという特徴も無くて」
てゆうか、部長のこの後の予定って、単にデートでしょう。面倒な話をさっさと終わらせたくて僕に振ったとしか思えない。
僕の困惑をさくっと無視して「出張料金は出せよ」「いくらでも請求してくれ」と金の話を2人だけで適当にやらかした後「じゃ、よろしくね」と実務は僕に丸投げした。他人が僕の都合を勝手に決める。ここ以外でこんなの、聞いた事が無い。
明後日の日曜日。クラリス・ホテルのティー・ラウンジ。11時から。
「報告は、月曜日だな」
僕が呆気にとられている間に、上杉部長はサラサラとメモしている。
「上手くやれよ」
ぱちん、と僕のおでこに貼り付けた。