テンポラリーラブ物語

 あの変質者といえば、今度はこのビルの女子トイレで同じ事をして、とうとう捕まったと噂で聞いた。

 あの話は皆が不安になってはいけないのでなゆみは誰にも話していない。

 氷室もなゆみの事を尊重し、事件の事は伏せつつも、各支店に防犯ブザーを常備するように勧めた。

 食器洗い、または人があまりこないようなトイレに行くときは、それを持って防犯対策とした。

 氷室とはトンカツを一緒に食べたのを最後に、あれから碌に会話もしていない。

 勤務地は近いが、会う機会は全くなかった。
 
 それともお互い会わないようにしていたかもしれない。

 たまに電話で声は聞くが、型に嵌ったビジネス会話で「お疲れ様です」と言って、あとは川野に繋ぐくらいの会話しかなかった。

 またそれがわざとらしいほど、よそよそしかったりもする。

 最後はこのままさようならを言ってお別れだと二人は思っていた。



 川野が休憩で席をはずした時、千恵はタイミングを見計らって話しかけてきた。

「サイトちゃん。ミナちゃんが小耳に挟んだらしいんだけど、氷室さんお見合いして今付き合ってる人がいるみたいだって言ってたよ」

「そうなんだ。それはよかったですね」

 なゆみは無理に笑って話を合わそうとしていた。

「本当にそれでいいと思う?」

「どうして?」

「ううん、ただなんとなく聞いてみただけ。あっ、いらっしゃいませ」

 ちょうど客がやってくると千恵は接客をしだした。

 なゆみは店の真ん中で、一人立ち、考え事をしてしまう。

 あんなに見合いを嫌がって無理やりだったといっていたのに、氷室は付き合いだした。

 本当に嫌ならば、氷室は断じて断るのはなゆみも想像できる。

 付き合い始めたということは、氷室は真剣に結婚を考えているということだった。

 それがどこか寂しく、胸がきゅっと締め付けられる。

 胸をつい押さえてしまったが、一時の気の迷いだと首を横に振って気合を入れた。

 あれだけ助けてもらって、優しくしてもらえば誰しも気にならないはずがない。

 いつか言っていた氷室の言葉 ──『義務』

 なゆみはいい上司に恵まれたんだと思い込もうとしていた。