テンポラリーラブ物語


 一方でその土曜日の夜、氷室は自宅で父親から電話を受けていた。

「えっ、明日? もう予約取ってる? そんな急に。分かってるよ。父さんのお陰で一人あの宗教から救えたから、それは感謝してるよ。えっ、その借りを返せって? もう人の弱みに付け込みやがって。強引だな。わかったよ。行くよ! 明日、行けばいいんだろ。だけど行くだけだからな。それ以上は何も期待すんなよ。わかったよ。それじゃ明日」

 携帯電話を切り、それを無造作に放り投げ、気怠くベッドの上に転がった。

 何度と溜息を洩らしては、何も手につかなかった。

 父親と話せばいつも話題は同じことの繰り返し。

 ずっと以前から言われていた事柄だった。

 今回は借りがあるために、氷室も言うことを聞かざるを得ない。

 それもあるが、もう一つモヤモヤとさせる事柄があった。

「あいつ、ジンジャと映画楽しんだんだろうか」

 ジンジャが店にチケットを買いに来た時、従業員の女子を端にどけてまで、氷室が自ら進んで接客した。

 ジンジャに言いたかったことが舌先まで触れていたのに、私情を仕事に持ち込んではいけないと必死で我慢していた。

『お前、斉藤のことが好きなのか?』

 そう聞きたかった。

 だが映画のチケットを二枚購入したことで、違う言葉が出てきた。

「斉藤と行くのか?」

 挑戦的に睨みつけるように静かに氷室を見上げ、ジンジャは落ち着いて口を開いた。

「もちろん」

 それ以上は何も言わずに、お金を無言で支払った。

 メガネを通して冷たく見るその視線が氷室を敵視していた。

 そういう経緯があったから、なゆみが普段着ない服を着て、薄らと化粧までしていたことで、すぐにジンジャとのデートだと理解した。

 あの時のなゆみは氷室もドキッとするほどかわいかった。

 その裏で、ジンジャのために着飾ったことに氷室の心は嫉妬で一杯だった。

 まともに見られず、気の利いた事も言えず、大人な対応が全くできなかった。

 胸だけが詰まったように苦しくて、無難な対応すら取れずに逃げることを選んでしまった。

 なゆみと心交わした事が幻のように思え、あの姿を見ると全てがなかった事のようになってしまった。

 挙句の果てに、負け惜しみで『映画楽しんでこいよ』などと出たところは、自己嫌悪に陥るほど馬鹿げたガキの行動だった。

 32もなって年甲斐もなく少年のようにはしゃぎ、一喜一憂して気持ちが不安定に揺れ動く。

「テンポラリーラブ」

 不意にそんな言葉が口をついた。

 なゆみは8月末になれば仕事を辞め、そして9月から留学で日本からいなくなる。

 その後もう会うこともなくなるのだろう。

 氷室は壁に掛けてあったカレンダーを見ていた。

「もう残り二ヶ月切っちまったか」

 また溜息が漏れ、天井を虚ろに見つめていた。

 どうすることもできず、また振り出しに戻ったように挫折を感じ、やる気がなくなってきた。

 こんな気分をいつまでも引きずってるわけにもいかないのは百も承知だった。

「俺もそろそろ身を固めるべきなんだろうか」

 そんな言葉が出たのも、父親との電話が原因だった。

 ずっと引き伸ばしていたが、借りを作ってしまった事でとうとう逃げられなくなってしまい、翌日は父親の知り合いの娘と見合いをすることになってしまった。

 いきなり、強硬手段で進められて、受けざるを得ない形を取ったことが腹立たしいが、気分を変えるにはいい機会なのかもしれない。

 その反面、自暴自棄になってしまっていた。

 その見合いの相手は、父親が言うには氷室にぴったりの条件を備えていると言っていた。

 娘の父親も、全く知らない相手でもなく、氷室が昔に世話になり、その影響を大いに受けた恩人とも言っていた。

 あまりその時の記憶はなかったが、氷室は父親の用意した見合いに段々と流されていく。

 投げやりに、なゆみの事を考えまいとしながら、氷室はベッドの上で寝返りを打ってまた溜息を吐いていた。