「あの、」


「ん?」


「……わたし、あなたの名前知らない」



キョトンとする目の前の人に気まずさからそっと目をそらした。うん、言いたいことはわかるよ。今さら?今さら言うの?って感じよね。わたしもそう思うわ。でも今までは旅人さんとか貴方とかで事足りたから…好きって自覚したのに名前も知らないとか何なのってわたしでも思うよ、うん。


言い訳をすると名前を知ってしまったらなおさら後に引けないと思って聞くの躊躇っちゃったのよ。それに自己紹介とかもされなかったし…あれ、わたしもしてないわ。ということはお互いに名前知らない状態ってことなのかしら。案の定、



「あ、俺も君の名前知らないね」



と真面目な顔で返されてなんだかもう呆れを通して笑えてしまった。でも、こういう普通じゃないのってわたしたちにぴったりかも。


クスクスとお互いなんだか楽しくて笑ってしまう。不思議、さっきまで逃げなきゃって思ってたのに、今は全然不安とか焦りとかが湧いてこない。これも旅人さんと一緒にいるからなのだろうか。



「俺はジルバ。植物と縁の深い緑の一族だよ」



君は?と問われて普通に名前を言おうとして少し考える。わたしはこれからこの人と生きていくんだ。貴族であったわたしとはおさらばだから。



「わたしは…わたしの名前はマリーよ。これからよろしくね、ジルバ」



貴族としての「アンネマリー」はここで死んで、わたしは「マリー」として生きていく。



「マリー…マリーかぁ。うん、こちらこそ」



じゃあ行こうか、と笑うジルバにわたしも笑顔で頷く。追手に囲まれて背後には崖。ここから逃げられると思うのか、なんて愚問ね。その油断しきった高慢な態度ぽっきり折ってやるわ。



「マリー、悪い顔してるよ」


「今までさんざん追い掛け回されてストレス溜まってたのよ。これで清々するわ」



苦笑する彼の首に自分の腕を巻き付ける。この腕の中にいて恐怖なんて微塵もない。むしろわくわくするわね。



「それは俺も同感かも。それじゃあ、マリーのこともらってくね」



まさか、と驚愕をあらわにする追手に強気な笑みを見せながら、何の気負いもなく自然な動作で崖に一歩踏み出して、わたしたちは深い森の中に消えた。