それ以来、私は美術部に足を運ばなくなりました。
 正直言えば、週に一度ある美術の授業もなぜ選択してしまったのかと後悔するほど、参加するのが億劫なのです。
 けれど、エスケープする訳にも行かないので、極力眠傘先生を避けるように過ごしていましたし、彼もそれに気付いているのか、私に話しかけるのは必要最低限の言葉のみ。
 寂しいかと問われれば否定は出来ません。
 それなのに、失恋して悔しいかと問われればさあ?と返すしか術がないのです。
 
 秋も深まり出したある日の事。
 職員室に呼び出された私は眠傘先生が隣の浅川巴亜先生と中睦まじく話をしている姿を見てしまい、彼の想い人が浅川先生だと知ったのです。
 浅川先生は既に結婚しているけれど、他の女性の先生の誰よりも綺麗で優しい英語の先生。
 そんな人と私では勝負にすらなるはずがありません。
 私の小さな失恋は、粉々に砕け、もう美術へのほんの小さな熱意も消え失せてしまいました。
「退部、しよう…」
 
 退部届けに名前を記入した私はそれを眠傘先生に渡そうと、あれから二日後の今日、再び職員室に来ていました。
「眠傘先生なら美術室にいるわよ」
 浅川先生に熱意が覚めたから退部届けを出したいと伝えると、彼女は大袈裟に溜息を零したのです。
「そう。先生に恋したから部活を始めて、振られたからと辞めるのね」
 熱意が覚めたのは美術に対してだと言うのに、浅川先生はそんな風に受け取るのでした。
「違います。違うんです、先生。私は…」
「貴女の顔を見れば分かるわ。鏡を貸してあげるから見てご覧なさい」
「…失礼します!」
 浅川先生がポーチから手鏡を渡そうとするので、私は思わず逃げてしまいました。
 あんな意地悪な事をしなくても、今の私が酷い顔をしている事なんて自分が一番良くわかっているつもりでしたが、廊下に貼られた鏡に映る私の顔は、自分が思うより酷く、情けなさに今にも泣きそうになっていました。
 何をしても、普通。外見も、普通。
 そんな私が泣いた所で絵になるなんてとても思えない。
 そんな事を思いながら昇降口に向かうと、いつも目で追ってしまっていた、グレーのスーツが視界に入ります。
 眠傘先生…。
 私は思わず踵を返し、階段を昇りました。
 それに気付いた先生が私の後を追うのです。
 どれだけ走っても、追いかけてくる先生の足音に、私は諦めを感じ、足を止めました。
「廊下、走ったら危ないですよ、水崎さん」
 肩で息をするのがやっとの私と違い、呼吸一つ乱さずに眠傘先生がそう言うのです。
 優しい声音で。
「先生は…」
 息も絶え絶えになりながら、ボロボロと涙を零し先生はと、話を始めようとしたのですが、言葉が上手くまとまりません。
「眠傘先生は、好きな人がいるのですよね。浅川先生ですか?私じゃ、ダメ、ですか?」
 私は何を聞いているのだろう。
 答えなんてもう分かりきっているのに。
 眠傘先生の口からちゃんと失恋の宣告をして欲しいのか、間違えを指摘してほしいのか、それは私にも分からないのです。
 けれど、彼の口から真実を知りたいと。
「先生、教えてください。貴方が好きな人はどんな人ですか?」
 やがて。
 眠傘先生が口を開き、その質問に答えを出そうとしました。
「先生が好きなのは浅川先生ではありませんよ。あの人は結婚していますし、むしろ浅川先生は先生にとって…」
 もう、それ以上、聞きたくない。
 それなのに、ここから立ち去ろうとしても、足が言う事を聞かない。耳を塞ごうとしても、腕が言う事を聞かない。
 お願いします。
 これ以上、言わないでください。
「水崎さん、泣かないで…」
 ボロボロ涙を零す私の肩を眠傘先生が包みます。
「先生が好きな人は、いつも美術室で最後までデッサンを描き続けていて、決して上手い絵を描くわけではないのですが、それでも優しいタッチの作品を作られる人です」
「嘘つき…」
 本当は、そんな事は思っていませんでしたが、先生が私のことを憐れに思っているというのは伝わります。
「嘘じゃないよ。僕に褒めてもらいたくて頑張る美術部員だった生徒が大好きでしたよ」
 眠傘先生は、そう残して、その場を後にしました。
 ポツリと残された私はどうしたら良いのか分からず、暫く立ち尽くしていたのでした。