その日の放課後、私は美術室の戸をそっと開けました。
 そこには三人の生徒がノートの隅に落書きをしているだけで、ドラマのワンシーンで見るような、美術部らしさは微塵もありません。
 むしろ、ここは漫研のような印象。
 三人は好きなアニメかなにかの話に夢中で、誰某がドSで素敵なの!だのヤンデレがどうのと訳の分からない言葉で盛り上がっていました。
「あの…美術部に仮入部したいのですが…」
 私の言葉に三人は文字通り狂喜乱舞するものだから、私は思わず後ずさりしてしまいました。
 好きな漫画は?ラノベは?アニメは?と、いわゆるオタク方向の好みのリサーチが始まり、私がどれにも興味があまりないと返すと、明らかな落胆を見せた後、私達が立派なオタクにしてあげるわ!と三者三様に胸を叩いて笑むのです。
「私は、漫研ではなく、美術部に…」
「似たようなものよ、気にしないで!」
 嬉しそうに笑う部長がそう返すものですから、どうしたものかと私は困惑しました。
 美術部と言えば、粘土のようなもので立体アートを創作し、大きなキャンバスに石膏像を描くものだとばかり想い敷居が高い部活動だと思っていたので、そのギャップに暫く苦しみそうだと、私は選択を誤ったのではないかと疑問すらわくのです。
 
 それから、数日間、部長から水張りボードの作り方や鉛筆の持ち方など、初歩的な指導を受け、教室に置かれた小物をモデルにデッサンというものをとりました。
 元々の部員である三人は特に部活動に熱心ではなく、主にアニメの話題などで盛り上がりノートの隅に落書きをして気が済めば帰宅するだけの活動をしています。
 下校時刻を告げるチャイムが流れる頃には、広い美術室に私一人だけが残るようになりました。
 そして、ある事に気づくのです。
 眠傘先生は、部活動を終える下校時刻のチャイムが鳴るまで美術室には来ない事。
 理由は、まだ残る生徒がいては親御さんに心配させてしまうし、先生も困るから。との事でした。
 たったそれだけですが、私には眠傘先生の秘密を知ったような気持ちになり、嬉しさを感じていました。
「今日も、熱心だね、水崎さん」
 眠傘先生が私に微笑みを浮かべつつそう言い、デッサンの指導を少しだけしてくれました。
 曰く、影の濃淡、鉛筆を走らせる向き、切り取るポイントや角度、それらを合わせないとデッサンにはならないと。
 ただ、それだけの指導でしたが、肩先が触れるか否かの距離で過ごす二人きりの時間は、私には幸せそのものでした。
「さて。もう日も落ちてしまったし、今日は帰りましょうか」
「…はい」
 眠傘先生と最寄り駅まで歩きましたが、会話が弾まないのです。
 ぽつり、ぽつりと、二言、三言を交わすだけの数分間。
 けれど、私にはそれさえ至福のひと時なのでした。
「水崎さんには、好きな人はいますか?」
 不意に、眠傘先生が私にそんな事を問い、私はドキッとしました。
 目の前に居ますと言えば、先生はどう返すだろう。
「先生には、好きな人がいます。とても大切で、守ってあげたいと思っています」
 返答を考えていた私に先生が幸せそうにそういう者ですから、私は悟られぬように落胆しました。
「先生、その人の事、大切にしてください」
 そう言うのがやっとで、そのまま私は逃げるように帰る時に使う下りホームではなく、上りのホームまで走りました。
「どうして、あんなこと聞いたの?それに、こっちは反対のホーム…」
 眠傘先生が下りの電車に乗ったのを見送り、私はそっとそのホームに向い帰宅しました。
 恋は、何をやっても普通の私には失うものでしかないのだと、溜息を零し、満員電車に揺られました。