エレベーターに乗り込むまで振り返ることはしなかった。
「フラグとか……アホすぎる。知ってたけど」
それでも、マンションから一歩出て、まだ昼の暑さの残る外気に触れるころにはさすがに正気を取り戻していた。
言われた意味をじっくり反芻する。路肩に寄り、スマホをかけた。相手は瑛主くん。
瑛主くんはすぐに出た。
『はい』
「私です。姫里」
『どうした』
あ、と思わず声に出た。この人、上司だった。どうかしたときにだけ連絡を取るべき相手だってこと、忘れてた。
『なにか、あったの?』
時間をかけて、瑛主くんは被せて聞いてきた。ただそれだけで、なんだか泣けてくる。呆れられていてもおかしくないほど醜態をさらしてきたのに、私という存在はまだ見捨てられてはいなかった。
「やばい。瑛主くんが優しいこと言ってる」
やばいなんて本当はそんな言葉使いたくないし、若い子ならともかく同年代が使っているのを見ると幻滅していたほうだ。使いたくないんだけど、この優しさはやばかった。本能的に。やばいって多用する女の子の気持ちがすとんとわかった。逸る気持ちに言葉が、自分が、全く追いついていない……。
『また酔っているんだ』
「すみません。またなんです。その通りなのです。もう帰ります」
『そうするといいよ』
かすかに含み笑いが混ざっていたけど、刃向かわず素直に頷いておく。
『じゃあ、おやすみ。姫里』
「おやすみなさい、瑛主くん」
このまえは酩酊のままタクシーで帰った道を、バスと徒歩で倍の時間をかけて帰る。電話越しの瑛主くんのおやすみの声がまだ耳に残っている気がして、いつもなら道草を食いたくなるコンビニの明かりにさえ惑わされずまっすぐ家路についた。