瑛主くんのマンションに着いた。エントランスのドアを峰岸さんは手持ちのバッグから鍵を出して開けた。瑛主くんの部屋の鍵が未だにポストにあると思っていた私はそのことがショックだったし、それを見逃す峰岸さんではなかった。私に流し目をくれながらまえを横切り、先にエレベーターに乗り込んで、迷う様子もなく目的の階のボタンを押す。ドアを開けたままにしながら「行く?」と聞いてきた。私は頷いて乗り込んだ。瑛主くんがしてきたのと同じように部屋のまえまで送るつもりでいた。
「結婚は夢を叶えるための処世術」
と、階数表示を見ながら峰岸さんは言った。
「心までは満たさない。そのくらい谷口くんもわかっているの。彼、頭いいから」
反論したいのはやまやまだったけれど、相手は既婚者でありながらかつての恋人に心を満たしてもらおうとしている人だ。いいほうと悪いほうのどちらへ転ぶかわからなかったから言えなかった。峰岸さんにかかればそれさえも『できないなんて言い訳』と切り捨ててしまうのだろう。
扉が開いた。促され、私が先にエレベーターを降りる。もう時間がなかった。峰岸さんとこうして話す機会がまた次にあるとは思えない。
私は峰岸さんを引き寄せ、エレベーター横の壁に押しつけるようにし、両腕を伸ばして閉じこめた。峰岸さんが私と壁とのあいだに挟まれる恰好だ。間近で大きな目が瞬いた。
「私、壁ドンなんてされたの初めて」
「私だって今日までしたことなかったですよ」
なんの告白しているんだか。緊張が弛んだのを好機と捉え、私は踏み込む覚悟を固め、一息に言いきった。
「谷口主任が頭がいいというのなら、主任がどうなることを望んでいるのか、あなただってうすうす気がついているんじゃないですか?」
いつでも出せるようにとバッグのポケットに入れていた、私にとっての切り札を、文字が読める高さで峰岸さんに握らせる。
「この名刺は映画を手がけたことのある友人から譲りうけたものです。あなたの魅力をこんなところで無駄に発散させておくのがもったいないと思って」


