きびすを返して、走って家に帰ろうと思った瞬間、
ごとん、とコーヒーの落ちる音がして、
次の瞬間、ベンチから追うようにして立ち上がった
彼の腕の中に囚われていた。

コポコポ、というようなコーヒーの零れる音がして。
呆然とした私がふと視線を下げると、
それは公園の床に落ちた
缶コーヒーが倒れて零れている音で。

「…………」
私は心臓がおかしくなりそうなくらい、苦しい。
苦しいのに、なのに、たまらなく嬉しくて。

こんなことばかりされたら、
私は彼の事がますます好きになってしまうのに、

「……拓海、ズルイ……」
思わずそう、言葉が零れ落ちた。
一瞬その言葉に、拓海の呼吸が止まって、
ふっと、小さな笑い声が聞こえる。

「……ああ、全部悪いのは俺だな……」
謝っているのに、謝っているように聞こえない言葉が、
切なげな囁きと共に私の髪に堕ちてくる。

「……そうだよ、拓海が全部悪いよ……」
下を向いて、彼の胸に頬を押し当てたまま、
気づけばそう呟いていた。

「大事な人がいるのに、
私の気持ちを、ダメって言ってもくれないし、
こんな風にしたり……キスしたり……」

とっさに言った言葉に、恥ずかしくなって、
自分の体温が上昇するのに気づく。
私の拓海への気持ちを集めたみたいに、
甘く溶けるような香りが上がるような気がして、
胸が苦しくなる。

「……佳代……」
彼がたまらなく深く甘い声で、私の名を呼ぶ。
逆らえない誘惑と耳元に堕ちた吐息に、
真っ赤になったまま、顔を上げた。

「……ったく、なんて顔をしてやがるんだよ……」
そう言って、彼は一瞬ためらってから、
そっと私の額にキスを落す。
指がゆっくりと頬を撫ぜていくのが気持ちよくて、
思わず瞳を閉じそうになる。

「目だけは、閉じるな……」
そう一言言われて慌てて目を開くと、
至近距離で彼と目が合う。

「目なんて閉じられたら、
またしてしまいそうだからな……」
そう言って、彼は自らの親指の腹で、
撫でるように私の唇を触れる。
その、自分とは違う男性の指の感触に、
ゾクリと身を震わせるような甘い感覚が背筋を走る。

「なあ……佳代。俺に、惚れてんのか?」
真剣な口調なのに、
どこかからかうような響きを秘めて、耳元で囁く。
その言葉に、真っ赤になって頷くと、
ふっと彼が空を見上げ、ため息をついた。

「……もう5年だ」
彼が視線を下げて、私を見つめてそう呟くから、
私は真っ赤な顔のまま、じっと彼の瞳を見つめる。

「……春になったら、アイツに会いに行ってくる……」
「ちゃんと話してきて、謝ってくる」
「ずっとアイツを待っててやるつもりだったんだが、
他の女に気持ちが動いちまったら、
待つも何もないからな……」

そんなんで待たれても、
アイツだって納得しないだろうし、
アイツも俺も幸せになんてなれないからな……。

そうぽつりとつぶやいて、

「……佳代」
もう一度私の名前を呼ぶ。
「はい……」
思わずその声の真剣さに、私は言葉遣いを改めた。

「……春休みに、東京に帰って、
アイツとちゃんと話をしてくるから、
それまで待っててくれるか?」

その彼の言葉に、私は小さく頷く。
じんわりと、胸が熱くなって、鼓動が高く鳴る。
それって……どういう意味だろう?

「……いいよ、今まで……ずっと、待ってたから。
そのくらい待つのは全然平気……」
ずっと、先なんて考えられないまま、
それでも好きでいたかったから……。