駆け寄ってくる平泉先生をジェスチャーで止める。彼女の顔を見てウインクをし、霧谷君に向かってニコッと笑って見せた。

「……って言うのは嘘だよ霧谷君。俺のスマホは無事。」

クラス全体からは安堵のため息がもれた。しかし、霧谷は気に食わない様子で声を荒らげた。

「は……はぁ!?テメェ調子こいてんじゃねーぞ!?ぶっ殺すぞ!!」

「あれ?霧谷君から俺にイタズラしてきたんじゃないのかい?そうだと思って俺は、わざと君のイタズラに引っかかってあげたんだけどなぁー……それにさ……。」

俺は霧谷の耳元まで近づくと、周りに聞こえぬように囁いた。

「……さっきから思ってたけど……社会の窓、全開だよ。」

「っ!!?」

霧谷は驚き、急いで自分のズボンを確認しチャックを勢いよく上げた。

「っっ……テメェ……!」

霧谷は顔を真っ赤にしてこちらを見ている。俺は霧谷の目線の高さに合わせるように、膝に手をつきニッコリと笑った。

「これで、おあいこだな。イタズラはほどほどにするんだぞ?霧谷君。留年はしたくないだろ?」

「……チッ……。」

まだ悪態をつく霧谷へ小さな声で呟いた。

「君は……平泉先生が好きだから、イタズラばかりしてしまうんだろ?」

そう告げると、彼はより一層顔を赤くし、声を荒らげた。

「あぁっ!?テメッ……マジふざけんなよっ!!誰があんなっ……クソババア……!!」

『……図星……なのかな?』

「フフッ……じゃあ、授業頑張れよ。平泉先生の為にも、自分の為にも。」

そのままパイプ椅子へと座り、ノートを広げた。

「平泉先生、授業の時間を大幅に削ってしまってすみません。もう授業を始めても大丈夫だと思いますよ。」

彼女は少し間が開き、ハッとして返事をする。

「っ……はい!……で、では、教科書31ページの……。」

彼女の授業を受けながら、問題の霧谷を見た。相変わらず姿勢も悪く、挙手などの積極性は見られなかったが、ノートをしっかりと取り、最後まで問題無く、きっちりと話を聞いている姿を見てホッと胸を撫で下ろす。

『……本当に、分かりやすい授業だな。字も綺麗で、何より板書も写しやすく見やすい。』

何事もなく授業は進み、もうすぐ3時限目が終ろうとしている。

『こんなクラスを毎日毎日、大変だろうなぁ……すごいな、ほんと。』

改めて平泉先生の凄さが分かる。長年と言っては失礼かもしれないが、長くこの学校にいるからこそ、こうした生徒にも向き合っていられるのだろう。

「っ……コホッ……ケホッ……んっ……。」

『うーん……喉の調子がいまいち……初日にしてこれじゃあ身が持たないぞー、遠ノ江友弥……!』

「……はぁ……。」

結局、俺が生徒達の前に立つことは出来なかったが、板書の見やすい書き方や説明の仕方など多くのことを学んだから、良しとしよう。

「……遠ノ江先生、授業中に咳してましたけど……大丈夫ですか?」

「あ……聞こえてましたか。いえ、大丈夫ですよ。大したことはありませんので、お気になさらず。」

職員室に戻ったあと、平泉先生が声をかけてきた。こちらを覗いてくる彼女の顔は、眉が八の字に垂れ、口が三角形だった。

「……あまり無理はなさらないでくださいね。まだ初日なんですから……今日は授業数も少ないですし、ちゃんと職員室で休んでいてくださいよ?倒れられては困ります。」

「っ……へへ……ご心配、ありがとうございます。本当に優しいですね、平泉先生は。」

「っ!!……ではっ……私は、その……数学科の教室へ……失礼します……!」

彼女はまたもや、逃げるように俺から離れていった。それと入れ替わりに、忠が職員室へ入ってきた。忠は俺を見つけると戸惑った表情を見せ、作り笑顔で俺に接触してきた。

「……どうも、遠ノ江先生。」

「あ……こんにちは、保坂先生。」

ぎこちない挨拶を交わすと、俺はデスクへと向かう。忠は俺のことを背中からじっと、まるで上から下まで観察するかのように見ている。その視線は、針のようにチクチクと痛く感じた。刺さるその視線は、疑いと恐怖から来るものということは、馬鹿な俺でも分かる。

「……あ、あの……保坂先生……なんで、しょうか……?」

「っ……すみません……つい、似てたんで……あっ、いや……なんでも……。」

普段なら思ったことをすぐ口に出すようなことはしない彼が、思わず言ってしまうほどに気になっているようだ。

『……似てた……そりゃあ本人だもん……似てて当たり前じゃん、忠……。』

今すぐそう言いたい。しかし言えない。このもどかしさはなんと言おうか。こんなに気まずい雰囲気を作り出してしまっては、話を進めるに進められない。

『お昼を永盛先生と一緒にどうですかー?って……今更言えねーよなぁ……あー、どうしよう……なんかネタ……。』

「っ……ケホッ……コホッゴホッ……っ……はぁ……。」

『咳も止まんないし……もう、勘弁してくれよ……!』

チラリと忠の方を見ると……ものすっごい心配そうな顔をしていた。忠の動揺した顔を見るのは、俺が死ぬ前のあの瞬間以来だ。

『もしかして……トラウマになってる……?』

「……ケホッ……心配してくれて、ありがとうございます、保坂先生。そんなすごい顔しなくても大丈夫ですよ。こんなので死にはしませんって。」

「っ!……すみません……。」

「謝らないでください。先生は、なにも悪いことしてないでしょう?謝ってばかりじゃ損しますよ?例えば……。」

「うぉっ……!?」

俺は忠の眉間に人差し指を押し当てた。目を丸くした彼はそのまま固まり、呆気にとられ口を開きマヌケな顔をした。

「フフッ……眉間のシワ、取れなくなっちゃいますよ?」

ポカンと口を開け顔が少し緩んだと思ったら、口元を緩ませ、フッと笑った。

「余計なお世話ですよ。教師ってのは、何かと眉にシワ寄せることが多いんでね。もう諦めてます……ジロジロと見て本当すみません。遠ノ江先生は昔の友人に、すごいそっくりなんですよ。何もかもが……本当……怖いくらいに。」

忠の口元は笑っていたが、目には悲しみが映っていた。こんなに辛そうな忠を見るのは胸が痛む。

「そうなんですか……あの、もっとお話聞かせてくれませんか?初対面でアレなんですけど……お昼になったら、一緒にどこかで食べません?」

「あ……えぇ、いいですよ。どこがいいですか?職員室でも、食堂でも……屋上も空いてますし。どこでも結構ですよ。」

『屋上か……懐かしいなぁ。』

12年前、3人で屋上を独占して食べたお昼。以前の屋上と変わっていないことを願うばかりだ。

「あ、そうだ。永盛先生も一緒でいいですか?彼とも約束しているんですよ。」

「あぁ、大丈夫ですよ。俺から色々伝えておきましょうか?」

「ありがとうございます。じゃあ場所は……屋上で。」

「分かりました。俺から永盛に伝えておきます。……じゃあ、昼に。」

「はい。」

これで3人揃ったことになる。あとは真実を話すとき、どう切り出すかだ。

『んー……慎也はいいとして、忠がなぁ……もう他人ヅラしちゃったしなぁ……。』

「……まいっか、その場の雰囲気で……何とかなるかな……。」

俺はそう呟いたあと、デスクワークを片付けるために、書類とにらめっこをするのだった。

キーンコーンカーンコーン……

「おっと……もう昼か……。」

チャイムの音が、懐かしくて心地よかった。昔と変わらないこの音が、気分を上げてくれる。

「……とーのえセンセっ!お仕事、どんな感じですか?もう慣れた感じですか?」

「うわっ!……も〜……ビックリしましたよ、佐渡島先生……。」

佐渡島嶺(さどじまれい)先生は国語科の現代文担当の先生。俺と同じぐらいの身長で、短髪の明るい赤茶色の髪が特徴だ。『サドっち先生』や『レイちゃん先生』と周りの生徒から呼ばれている。たまに仕掛けてくるイタズラには、先生や生徒の間でも噂になっているほどだ。『れいって名前だけど、野郎だよ☆佐渡島嶺デース☆』という言葉が、初めて交わした言葉だった。

『なんつーかこの人は……チャラ男だな。』

「あ〜!今、ユウちゃん先生……僕のことチャラい人だなーって思ったでしょ!」

「えっ……いや、その……。」

あと、読心術が得意だそうだ。

「うん、正解!僕は正真正銘のチャラ男だよ!おー当たりっ☆」

「っ……あはは……。」

『この人は苦手だなぁ……つか、ユウちゃん先生って……。』

図星な上に変な名前まで付けられてしまった。妙にテンションが高くて、掴みどころのない人だ。絡みにくい。

「あ、そうだっ!友弥先生、お昼買いました?僕これから買いに行こうかと思ったんですけど、一緒に行きましょうよ!案内も兼ねて!」

「えっ……あ、はい……ありがとう、ございます……。」

「まだ、シンちゃん先生とタダっち先生はお仕事中だから大丈夫だよ☆ちゃんと間に合うから!」

ギクリと体を強ばらせると、ニヤリと笑った佐渡島先生は、後ろから肩を掴んで職員室の引き戸へと押した。

「盗み聞くつもりは無かったんだけど、僕のデスクが君のお向かいだからさー!聞こえちった!ごめんね☆」

「え、あ……はぁ……。」

彼に肩を押されグイグイと進み、購買のある場所へと向かった。途中、生徒達が佐渡島先生を見て元気に挨拶をする所を見ると、人気の高い先生なんだと改めて分かる。表裏のない明るい返事に、生徒達も嬉しそうだった。

『佐渡島先生の教訓は、皆と平等に向き合い、挨拶は明るく元気に……ってとこかな……?』

俺はまた幾つか学んだ。職員室での会話はすべて筒抜け(主に佐渡島先生に)、昼は持参すべき、佐渡島先生に嘘はつけない、ということを学んだ。

「購買到着〜!こんにちは購買のおばちゃん!今日は新作出てる?新人君の友弥先生に食べさせたいんだよねぇ〜!なんか無い?」

購買の方とも明るい会話する佐渡島先生は、お昼というこの時間を、心から楽しんでいるように見えた。話すのも、パンを買うのも全部、星が煌めくように明るくキラキラしていた。佐渡島先生は夜空に降る流星のような人だと思った。

「はいコレ!先輩の僕から奢りだよ!」

「えっ!こんなに沢山……お金払います、っていうか、佐渡島先生のは……?」

「あっはは!……実を言うと僕ね、お弁当持ってるんだ。購買に無理やりユウちゃん先生を誘ったのは、早く距離を近づかせるための口実。鬱陶しくてゴメンネ、僕みたいな人苦手なのにさ。」

短い前髪をいじりながら、照れくさそうに話す彼を見て、今まで苦手とか思って申し訳ありませんでした、と言いたくなった。

『……凄く……いい人……だな。』

「あぁ!今僕のこと褒めたでしょ!『佐渡島先生は、困っている後輩に目を向けしかも、こんなにも奢ってくれる器の広い先輩だ!』ってさ!ありがとね、ユウちゃん先生☆」

「あ、あはは……。」

前言撤回。やはりこの人は苦手だ。

「パン、買ってくださってありがとうございます。ではこれで失礼します。」

「はいはーい!3人で仲良くお食事して来てね〜☆」

佐渡島先生に手を振られ彼と別れた。急いで俺は屋上へと向かって行った。

「……チッ……なんで僕が、こんな『良い先生』を演じなきゃなんねーの。マジ吐き気するわ。けど……。」

俺が去った後、急変した態度で呟く佐渡島先生。舌舐りをし、いやらしく目が弓なりになる。
・・・・・・
「ヒヒッ……なかなか、住みやすそうな身体してんじゃんか……ねぇ?遠ノ江センセ♡」

その表情は、悪魔を思わせるほど邪悪な顔だった。

「────あ、来た来た。遅かったから来ないのかと思いましたよ。遠ノ江先生?」

屋上に上り鉄のドアを開けると、2人が快く出迎えてくれた。

「すみません、自分から呼び出しておいて遅れるなんて……。」

「気にしなくていいですよ。このメガネもついさっき来たばっかりなんで。」