しかし私は大事なことを一つ忘れていた。彼を引き留めることに、意識が全面的に持っていかれていたからかもしれない。
「あ゛!」
左手に持っていたコップから、
勢いよくコーヒーが波打ち、彼の足元横にびしゃんという音。
「え?」
若干つんのめっていた彼も足元を見て、
「やっちゃったな。」
そう言いながらかけていたドアノブから手を離した。
彼を引き留めるのがこんな形になっちゃうなんて。
「す、すみません。」
「大丈夫だから雑巾取って。」
彼はしゃがんでそれを求めるように私に手を伸ばした。
私は雑巾をとり伸ばした彼の手に乗せると、続いて布巾を濡らして彼のズボン裾をふき始める。
「俺のはいいよ。
ちょっとだけしかかかってないから。」
彼はすぐにそう言ったけれど、
「コーヒーって少しだけでも匂い残っちゃいますから。
…床拭かせちゃってごめんなさい。」
聞かずに私は淡々とふき続ける。
言っても聞かないと分かったのか観念して
「…市田床拭いてくれる?
俺のは自分でやるよ。」
と言って持っている布巾と雑巾を私たちは交換した。
床にこぼれたコーヒーを拭くついでに、目立ってた床汚れも掃除し始めた私に、
「おら、ついでに掃除始めない。」
速水さんが私から無理やり雑巾をはぎ取って、布巾と一緒に洗面台で洗い始めてしまう。
「ちゃんと裾ふきましたか?匂い残るんですよ。」
じろりと私は彼のズボン裾に目をやる。
「大丈夫だから。」
くすりと彼は破顔した。


