カララン。ありがとうございます。

 アイスコーヒーを飲み干し、店を出る時に投げ掛けられる、ありきたりな言葉。

 ドアを開けると、むっとする暑さに燦々(さんさん)と降り注ぐ日差し。夏、誰もがそう思うような季節に入った事を、改めて感じさせる。

 僕は久しぶりにこの街へ来た。

 歩道を歩く誰もが、この暑さで項垂れ(うなだれ)絶えず汗を拭く。

 交差点で信号待ちする間も、アスファルトからの照り返しと、時折吹く生暖かい風に気持ちが滅入る。
 信号が変わった。

 一斉に人々が動き出す。向かう向こう側からも。

 ゆっくりと動き出す僕を、後ろから足早に追い抜く女性。

 一瞬、とてつもなく懐かしい香りが僕を通り過ぎる

 向かう歩道に辿り着いた時、僕の足元に一冊の本が落ちた。

 つかさず拾い上げ、声をかける。

 「すいません。落とされましたよ」

 僕の声に気が付き、その人は振り向いた。 


 その瞬間


 心臓を槍で抉られる様な、途轍もない痛さが僕を襲った。

 その本を指し出したまま固まり、声を出そうにも胸を強く締め付けられ、声が出ない。

 彼女はその本を僕の手から受け取り、微笑みながら「ありがとうございます」と頭を下げ街の中に消えていった。


 「さ・お・り……」立ち竦みながら、途切れ途切れに出た言葉だった。


 どうしてまた、僕はこの街に来たんだろう。怒りにも似た悲しみが僕を襲う。

 彼女は、嘗て(かつて)僕の恋人だった人。でも、今の彼女には、僕の記憶はない。

 僕だけの記憶がない。


 「特定感情消失症」


 一つの感情が無くなるのではない。彼女の感情に元付く記憶が消失する病気。

 それは、彼女の一番大切な記憶が無くなる事。

 この世界に、彼女と同じ病名を持つものは未だかつて存在しない。

 だからそれを阻止することは、出来なかった。

 彼女と一緒に過ごした日々。彼女の声、彼女の笑顔、怒った顔、白く透き通ったような全身の肌、そして彼女の涙。


 どれもこれも僕の記憶には、今も尚はっきりと刻まれている。でも、彼女は僕の名前も、僕の声も、僕の姿も、そして僕と一緒に過ごしたあの日々も、僕だけを消し去ってしまった。



 彼女と過ごした大学3年の、百八十日間の記憶。


 それが、彼女にとって一番大切な記憶だったから。