あの人は、よく笑った。お気に入りのジュースを持って、よく笑っていた。思えば、いつもあのジュースを持っていたように思う。どれだけ好きだったんだろうか。
 あのジュース、結局、一度も飲んだことはなかった。自分が好きな味じゃなかったから、飲む気が起きなかった。今では、ちょっとは飲んだほうが良かったかな、なんて、少し後悔している。もう、遅いのだけれども。時間は過ぎた。
 あのジュース、実は美味しかったんだろうか。オレンジだったっけ、ぶどうだったっけ、覚えていない。おや、そういえば、ジュースの缶って、どんな形だったっけ。まさか。常識さえ、覚えていないのか。あの人がいつも持っていて、いつも見ていたあのジュースの缶、その形さえ思い出せないのは、少し悲しかった。
 多分、そのうち、あの人がジュースをいつも持っていて、そしてよく笑っていた、そのことさえ忘れるのだろう。違う、それだけじゃない、あの人が存在したという事実でさえ、思い出せなくなる。
 悲しいか、悲しくないかも、忘れてしまう。感情が、何か、巨大な渦に飲まれていく。消える、消える。感情が消える。
 喜んでいた、
 怒っていた、
 哀しんでいた、
 楽しんでいた。
 喜怒哀楽、事実とともに吸い込まれて、消える。
 一緒に、記憶も剥がれ落ちていく。気持ちのいいくらいに、あっという間に、散り散りになる。 
 ああ、どうしてこうなったんだっけ。そこがいちばん大事なはずなのに。おかしい、おかしい。
 ジュースが飲みたい。
 ああ、ジュースが飲みたいなあ。
 あの人と、全く同じやつを、一気に、喉に、流し込んで、
 あの人みたく、
 笑いたい。
 忘れる夢。
 おかしいや。


「都内のマンションで、遺体が見つかりました。警察は、自殺と断定しており——」
 

 つづく。