七一六年、元正天皇の御代で、参議の役職にあった藤原房前の下に、遣唐使の留学生に選ばれた者たちの名簿が届けられた。この名簿は、参議の確認を経ると、右大臣・左大臣・太政大臣・関白大臣の承認を経て、天皇陛下の最終承認を得れば、翌七一七年に実際に遣唐使たちの船出を待つのみとなっていた。房前が、どうしても素通りできない氏名が、吉備真備という人物であった。唐へ渡る留学生として選ばれた真備は、今年二十一歳の若さであった。若くして学才を謳われていた、まだ十八歳の阿倍仲麻呂の生地であった畿内に生活の基盤を置き、仲麻呂と同じ畿内から留学生として旅立っていく真備のことが、どうしても気になっていた。真備は、元々備中国下道郡の出身であり、父・下道圀勝は、備中国の有力な地方豪族であった。しかし圀勝は、妻・八木氏の出身地である畿内に生活の基盤を置き、そのため、真備は幼少の頃より、都の情報に通じていた。早くから阿倍仲麻呂と親しくなり、日本国内の様子のみでなく、隣国・中国の情報にも次第に通じるようになり、中国で数多の学問に関する研鑽を積みたいと志し、遣唐使に志願したとのことであった。しかし、当然のことながら、遣唐使を志願したからといって、希望通り唐の国へ行けるわけではなかった。当時は、遣唐使を希望する者達について、右大臣・左大臣を中心に留学希望者たちの学業成績や家系の調査及び口頭試問が行われていた。留学生を決めるにあたっては、一定の学業成績を収めている者、貴族・地方豪族を問わず、その留学生を支える家に、他に男子がいるかどうかなどが厳しく調査され、安全性の保障されていない当時の航海の事情を反映した配慮がなされていた。当時右大臣を務めていた藤原不比等は、口頭試問になると、吉備真備に尋ねた。
 「貴方が唐へ行きたい本当の目的は、何か?」
 真備は物怖じせずに答えた。
 「今は、唐の国にしかない文物を多数、この日本に持ち帰ることです。」
 その時、自分の目を真っ直ぐに見上げて来た青年の美しい目に、藤原不比等は、偽りのないその心中を見、
 「この者ならば、必ず将来日本国のためになることをする。」
という確信が持てたと試験後に語った。房前はずっと、父である不比等の言葉が気になりながら、息女の園姫のことも、琴の名手として、唐の国へ留学させることを決めたばかりであった。留学生の名簿を正式に作成する前に、不比等は、子息である房前を問い質した。
 「本当に園姫を留学させるのか?危険な航海であることは、分かっているな?」
 「…。」
 「わざわざ異国へ留学などさせずとも、今のこの日本国に園姫に敵う琴の腕前の姫君などおるまい。」
 「琴は、元々が異国から伝わった楽器です。日の本一など、井の中の蛙です。私は、自分の娘を、井の中の蛙にしたくはないのです。」
 「日本国の帝を楽しませることのできる腕前であれば、文句の言える者もおるまい。園姫も、皇室へ嫁がせればよいではないか。」
 「藤原氏北家は、既に何人もの女君を、皇室へ嫁がせてきました。私は、園姫だけは、違う家へ嫁がせたいのです。そうしておけば、一族に万が一何かあった時も、手の打ちようがある、というものです。」
 「だからと言って、何も自分の娘を、危険を冒してまで異国へやることはないではないか。」
 「異国へやることでもしなければ、娘の運の強さを試せません。どうせ、園姫は女君です。航海で死んで、私が愛しい娘を失ったところで、藤原氏北家は、何も失うものはありません。かえって、もし園姫が、危険な航海の果てに戻ってくれば、藤原氏北家にこの上もない幸運を齎す女君となり、藤原氏北家の今後にとって、これほど幸先のよいことはありません。」
 「そうか。そこまで言うのなら、好きにしてみるがよい。」
 「それと、父上の推す吉備真備とか申す留学生ですが、能力と同時に、運も強い男かどうか、試してみる価値が大いにありましょう。人は誰であっても、能力と運が兼ね合って、初めて役に立つと言えるのです。父上は、真備殿を日本国にとって役に立つ人材になる、とお見立てのようですが、現状の日本国は、藤原氏北家があって成り立っているようなものです。今の日本国にあって、能力と運が兼ね備わっている、と言われるためには、藤原氏北家にとって、利用しやすい人物かどうか、それが重要な選定の基準となるのではないでしょうか?」
 「それはそうだ。そなたの言うことは道理に叶っている。」
 「つきましては、父上。留学前の真備殿に、言い含めるべきことがございます。畿内の吉備氏宅へ挨拶に伺おうと思うのですが…。」
 「留学生の名簿は、既にそなたも目を通しているのだな?」
 「はい。」
 「吉備氏への挨拶が済んだら、右大臣である私の方へ、名簿を回せ。私から左大臣へ回しておこう。」
 「畏まりました。」

 父と別れ、自身の邸へ戻った藤原房前は、早速息女の園姫を呼んだ。
 「留学生の名簿を、帝の承認に回す段階に入ろうとしている。そなたは、今どうだ?航海は、やはり怖いと思うか?」
 「いいえ、お父様。より美しい琴の音色が出せるようになるために、唐の国へ行って参ります。」
 「一人で行くのではないからな。実は、今日これから、同行する留学生の一人のご自宅へそなたと一緒に挨拶に行こうと考えておる。準備はよいな?」
 「本日、でございますか?」
 「そうだ。吉備真備という殿方だ。この航海で無事に戻ったら、そなたたちは、夫婦になるのだ。」
 「…。」
 「ただし、航海が無事に終わるまでは、真備殿とは口をきくな。これから邸へ挨拶に行っても、そなたは真備と話をしてはならない。航海中の船の中でも、決して口をきくな。でももし、二人とも無事に唐の国に着いたら、 そなたは一にも二にも、真備殿の気持ちを自分に向けさせるのだ。真備殿が将来、日本へ帰国後も、そなた以外の女君を見ることのないようにするのだ。」
 「お父様。私は側女の子でございます。」
 「自分にできる子供も、側女の子にしたくなければ、何が何でも、真備殿の気持ちを、ものにしろ。遊女のような真似をしてもよい。」
 「お父様…。」
 吉備真備邸への道中でも、園姫は、父・房前と口を聞く気になれなかった。真備邸へ到着すると、房前は一方的に話し続けた。
 「突然ご自宅へ伺い、申し訳ありません。」
 「いいえ。参議様が、一体この私に、どのようなご用事でしょうか?」
 「これなるは、我が息女・園姫にございます。実は、今度の遣唐使に加わることになりました。同じ船に乗りますので、何卒お見知りおき願いたく、本日連れて参りました次第にございます。」
 「おやおや、そのようなことなら、私目の方から貴殿宅へ伺ったのですが…。一言、貴殿宅へお呼びになるご連絡さえ頂ければ、飛んで伺いましたが。」
 「こちらからお願いすることがあったので、まかり越しました。遣唐使の航海が無事に済みましたら、これなる我が娘を、貴殿の北方に迎えて頂きたい。」
 「藤原家のご息女なら、何も私でなくとも、いくらでも良い嫁ぎ先がおありになりましょう。女君なのですから、何も無理に危険な航海をなさる必要もありますまい。」
 「真備殿。この園姫は、私がもう若い年代を逸してから得たうら若い側女に産ませた娘です。でも、今の私にとって、一番大切な女君は、この園姫の母親です。園姫自身も私にとっては、この上もなく可愛い娘です。だからこそ、自分の大切な娘に旅をさせたいのです。獅子は、自分の子供を尖刃の谷に突き落とす、と申します。こう言えば、私がどれだけこの園姫を大事に思っているか、お分かり頂けるでしょう。貴方のお父上も、貴方のことを、ずっとそう思っていらした筈です。そして、貴方がこの園姫との間にやがてつくるであろう子女に対しても、今度は貴方自身が、尖刃の獅子とならなければならないのです。
 この娘は、園姫、といいますが、危険な航海中に身分の高い家の出で あることが分かると、よくないことがあるので、この娘には、園子、と名乗らせます。道中危険なことがあった場合は、貴方がこの娘の力になって下さい。
 但し、まだ唐の国に着かない間は、絶対にこの娘と口をお聞きにならないことです。娘は、まだ十五歳です。貴方が、唐の国に無事着いたら、後はこの娘の男君として、何をなさっても構いません。」
 父・房前の言葉に聞き入っている吉備真備のことを、園姫は一瞬見つめた。殿方として、園姫が意識する真備は、なかなかの美男子であった。しかし園姫には、今の真備が全然自分には興味がないことも、理解できていた。そして、何よりも今の真備が、父・房前の言うことに従い兼ねる心境にいることも、容易に感じ取っていた。自宅に戻って来ると、園姫は、房前に言った。
 「お父様。真備様は、私などには、全く興味がないご様子でしたわ。」
 「今日は、まだ初対面ではないか。これから、真備殿の気持ちを、今後何としても自分の方へ向けさせるのだ。」
 「でも、行きの船の中では、真備様と口を聞いてはいけないのでしょう?お父様のおっしゃることは、難しすぎますわ。私は、いっそ船が転覆でもしてくれて、死んでしまった方がずっと楽ですわ。」